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伏見区深草鳥居崎町にある藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、「勝運と馬の社」「菖蒲の節句発祥の地」として知られ、伏見区では伏見稲荷大社、城南宮、御香宮と並ぶ有名な神社です。
素盞鳴命や日本武尊等十二柱を祀り、洛南深草の産土神として地域の人に親しまれています。
藤森神社は平安京以前からの古社で、平安遷都以前の京都の全ての寺社と同じく創建年代等には諸説あるようですが、社伝によれば、3世紀(神功皇后3年 203年)神功皇后が新羅(いわゆる三韓征伐)から凱旋した後に、この山城国深草の里の藤森に纛旗(大きな軍旗 軍艦旗)を立て、兵具を納めて塚を作って祭祀を行ったのがはじまりということで、境内の本殿横にはこの伝説ゆかりの「旗塚」があります。
(尚、藤森神社の西方にある城南宮にも、神功皇后が新羅を攻略する折りの旗を御神体として奉納したのがはじまりという同様の創建伝説があり、両社は歴史的な関係深いようです。両社には秦氏ゆかりの真幡寸神社という神社が関係しているようです・・・以下に書いてみます。)
藤森神社の創建に関してより信憑性があると思われるのは、平安遷都以前からこの地を治めていた紀氏が深草山(稲荷山南)に雷神を祀ったことがはじまりという説です。
その後、紀氏の勢力は衰えて代わって渡来系の秦氏の勢力が大きくなりました。秦氏は一族の繁栄を祈って、現在の藤森神社のある辺りに真幡寸神社(まはたきじんじゃ 式内社 現在の城南宮の元)という社を建てました。真幡寸神社の「幡」は「秦」につながり、また藤森神社の「旗塚」の「旗」も「秦」につながることから、秦氏が創建した真幡寸神社の名残が「旗塚」であるという説があるようです。
やがて奈良時代初期に、秦氏が稲荷山に稲荷神を勧請した際に(伏見稲荷大社の創建)、紀氏ゆかりの神社(藤森神社の前身)の社地を削って社殿を山麓の現在の藤森神社の場所に移し、以前からそこに祀られていた真幡寸神社はさらに西へ遷座した(現在の城南宮の場所)と伝えられます。(尚、面白いことに伏見稲荷大社の周辺地域の氏神は今でも藤森神社ということです。伏見稲荷大社の氏子地区は東寺の北方方面)
現在の藤森神社は、本殿中央(中座)に、素盞鳴命・別雷命・日本武尊・応神天皇・仁徳天皇・神功皇后・武内宿禰の7柱を祀り、本殿東殿(東座)に舎人親王・天武天皇の2柱、また本殿西殿(西座)に、早良親王・伊豫親王・井上内親王の3柱を祀っています。本来は現在本殿に祀られる7柱のみを祀っていましたが、室町時代後期に他の2つの神社が合体して現在の藤森神社となりました。(以下に書いてみます。)
さて、当初の地から現在の地に遷座後、平安時代の延暦十三年(794)に桓武天皇から弓兵政所の称号が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われたということです。また桓武天皇は平安遷都の際に、王城鎮護のために平安京の四方に方除けの大将軍社を祀りましたが、その南の社は現在藤森神社の境内末社の大将軍社とも伝わります。(写真)
少し話題が外れますが・・ブログではこれまで幾つかの大将軍神社を採り上げてきました。実は大将軍神社は現在、京都市内に5つあるようです。北方=北区西賀茂の大将軍神社・北区紫野の今宮神社境内の大将軍神社、西方=上京区一乗通の大将軍八神社、東方=東山区東山三条の大将軍神社、南方=伏見区藤の森神社境内の大将軍神社。4つのはずが5つあるだけでなく、かっては八坂神社の境内にも大将軍神社があったようです。また、江戸時代の百科事典「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」によると、「東は岡崎(左京区)、西は紙屋川(上京区)、北は紫野大徳寺の門前、南は現在所在不明)」と記されているようです。
本殿東殿は、元は藤尾社と呼ばれ、奈良時代の天平宝字三年(759)、深草の里藤尾の地(現・伏見稲荷の社地)に舎人親王(追贈・崇道尽敬皇帝 一般的に「とねりしんのう」ですが、この神社では「いえひとしんのう」と呼びます。)を祀る神社として創建されたと伝えられます。その後、室町時代の永享十年(1438)、後花園天皇の勅により、将軍足利義教が山頂の稲荷社の祠を山麓の藤尾の地に移し(伏見稲荷大社は中世には上・中・下三社と山麓に広がっていたようで、その一部ということかもしれません)藤尾の地に祀られていた藤尾社は、藤森に遷座して東殿に祀られたと伝わります。尚、舎人親王は、日本書紀の撰者として知られますが、死後文武両道の神として皇室や藤原一門の崇敬厚く、貞観二年(860)に、清和天皇の時代に奉幣の神事が行われました・・これが藤森祭(深草祭)のはじまりということです。
一方、西殿は元は塚本社と呼ばれ、延暦十九年(800)に桓武天皇の弟・早良親王を祀る神社として塚本(現・京都市東山区本町)の地に創建されたと伝わります。天応元年(781)の桓武天皇の即位により早良親王は皇太子に任じられ、同年に起こった陸奥の反乱に対しては征討将軍として藤森神社に戦勝祈願し、これを伝え聞いた反乱軍は畏怖し戦わずして平定されたといわれます。しかしその後、早良親王は長岡京遷都に際して起こった藤原種継暗殺事件に連座して、延暦四年(785)、淡路に配流される途中無実を主張し絶食死したと伝えられます。それ以降、桓武天皇の親族の死、病気蔓延、大飢饉、さらに富士山の大噴火等が発生します。これら早良親王の怨霊が起した災いを鎮める為に、桓武天皇は延暦十九年(800)、親王に崇道天皇と天皇位を追号し、諸国の国分寺に読経を命じます。以降、早良新王を祀る御霊神社が各地に造られますが、塚本の地にも御霊社が建てられたようです。その後、天長三年(826)に、伊豫(伊予)親王(桓武天皇の皇子で、兄帝・平城天皇の時代に陰謀によって幽閉され絶食死)、井上内親王(光仁天皇の皇后で、同じく陰謀罪で幽閉され変死)の怨霊神二柱を合祀し、官幣の儀式が行われたと伝わります。その後、天喜三年(1055)に火災に遭い焼失、後再建され延応元年(1239)深草の小天王の地(深草西出町)へ移りますが、さらに応仁の乱で焼失したため文明二年(1470)に、三柱は藤森に遷され西殿に祀られたということです。
こうして合祀を繰り返して室町時代末期に社名も藤森神社となったということです。
現在の本殿は、正徳二年(1712)、中御門天皇より宮中内侍所(賢所)の建物を賜ったもので、切妻造桧皮葺の豪華な建物で、現存する内侍所としては現存最古のものといわれます。また拝殿も割拝殿として知られる大きな建物です。また本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は磐長姫命を祀ります。(写真)これらは共に室町時代の永享十年(1438)、将軍足利義教が平安初期に造営された祠を再建したものと伝えられ、国の重要文化財に指定されています。また八幡宮と大将軍社と並んで七社宮、天満宮、祖霊社があります。
本殿の東側には旗塚があります。(写真)
現在は石垣で囲まれた壇上に櫟(いちい)の木の切り株が安置されていますが、昔は「いちの木さん」と呼ばれて木の株をさわると腰痛が治るといわれ、新撰組の近藤勇も度々訪れていたという話も伝わります。
また、旗塚の横には伏見の名水の一つに数えられている「不二の水(ふたつとない良い水の意味)」があり、近隣の多くの方が水を汲んでいます。(写真)この水を飲んだら他の水は飲めないという方もいるそうです・・。
その他境内には、藤森稲荷社、蒙古塚(以前は7つあり、七つ塚と呼ばれました。蒙古の将兵と兵器を収めた場所という伝説があります。)、かへし石(別名は力石、祭礼の際に力自慢を競った大石)等面白い史跡があります。また平成三年(1991)、参集殿と共に完成した宝物館では、神社ゆかりの重文・紫絲威大鎧(むらさきいとおどしおおよろい)他鎧や刀等百点余りや藤森祭礼絵巻等が展示され、馬にちなんだものを展示する「馬の博物館」も併設されています。(写真)
かなり長くなりましたので、次回はアジサイの写真を中心に続けます。
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