京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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寺田屋

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伏見区南浜町にある旅館・寺田屋は、坂本龍馬と「寺田屋騒動」で知られ、「維新は寺田屋の一室から生まれたり」とも呼ばれる史跡です。いつも修学旅行の学生や幕末ファンを中心に多くの観光客が訪れています。また宿泊も可能です。(素泊り料金6500円)



さて、江戸時代の京都伏見は、大阪と京都の間を淀川〜宇治川でつなぐ物資輸送の大動脈の中継地として栄えました。今も伏見区西部の街中を宇治川派流(疎水と宇治川を結ぶ)が東西に横断して流れ、伏見城の外堀として掘削された濠川や東高瀬川(有名な高瀬川の流末、新高瀬川とも)が南北に流れています。寺田屋のある南浜町という町名も、淀川三十石船の船着場や荷揚場のひとつ南浜にちなんでいます。

寺田屋も南浜の船宿の一つで、前の船着場は寺田屋浜と呼ばれていました。
船宿の営業時間は1日20時間で、朝6時から朝廷に荷を運ぶ「今井船」ら3艘を仕立て、昼に3艘、夜に4〜5艘の「三十石船」を仕立てたようです。2時間ごとに30人程の客の食事や休息、入浴などの世話をするために大変忙しかったようですが、その分、船賃(慶応時代には約300文)の2割が収入となっていて、財政的には豊かな宿が多かったということです。寺田屋は、桃山時代の慶長二年(1597)百姓出身の伊助という人物が伏見京橋(現在の伏見区南浜)に移って船宿を開き、出身地の寺田村の名前から寺田屋と名付けたと伝えられます。その後江戸時代を通じて船着場として伏見京橋界隈は大いに栄え、六代目当主伊助の時代になっていた幕末の寺田屋は、薩摩藩の定宿に指定され、坂本龍馬や他の西国藩志士達も京都へ向かう際に常宿として大いに利用していたようです。この六代目伊助の女房が、お登勢(とせ)で、「寺田屋お登勢」は龍馬等多くの志士を助けたことで良く知られ、龍馬も「この人学問ある女で人物也」と高く評価しているそうです。

他の船宿と違って、寺田屋の名前が現在まで知られるのは、幕末の有名な事件の舞台となったからですが、まずは文久二年(1862)の「寺田屋事件(寺田屋騒動)」です。
当時、薩摩蕃内には、薩摩藩主島津忠義の父・久光を中心とする公武合体派(朝廷の権威と幕府を結びつけることによって幕政改革を行おうとする)と、勤皇倒幕を主張する急進派がありました。文久二年(1862)四月、島津久光は、公武合体を推進し、これにより急進派の動きを押さえようと藩兵千人を率いて上洛しました。これを知った尊王攘夷の急進派の有馬新七ら三十五名は、この機会に諸藩の尊王派と結んで関白九条尚忠、京都所司代の酒井忠義を襲撃殺害する倒幕蜂起を企てます。四月二十三日の夜明けを合図に挙兵を決行しようと、薩摩藩の船宿・寺田屋に集結した有馬らに対し、直前にこれを知った久光は、同じ尊皇派だった奈良原喜八郎ら八名を派遣し説得を命じました。奈良原等は有馬に藩邸に同行することを求めますが説得は失敗し、遂に乱闘となり、有馬ら七名が斬られ、他二名が重傷を負い翌日切腹しました。現在、寺田屋の庭の広場には、維新後の明治二十七年(1894)に、寺田屋で亡くなった殉難烈士の偉勲を残そうと建てられた「薩摩九烈士碑」があります。(有栖川宮熾仁親王の筆による篆額が掲げられています。)(写真)



さて、もうひとつの事件は、歴史的には寺田屋騒動ほど重要ではありませんがより有名かもしれません・・慶応二年(1866)、正月二十一日に、坂本龍馬が伏見奉行所の捕方に襲われて難を逃れた事件です。この時、女将のお登勢とその養女お龍(おりょう・後の龍馬の妻)の機転で龍馬は難を逃れました。二十一日の深夜12時頃、伏見奉行所の捕方は寺田屋の周囲を固めた上で女将のお登勢を呼び出します。この時、龍馬は二階「梅の間」で長府藩士・三吉慎蔵と酒を酌み交わして語らっていましたが、裏手の風呂で入浴中のお龍は只ならぬ気配に気付いて、裸同然の姿で裏階段から二階にかけのぼり龍馬に急を告げます。急を聞いた龍馬は懐中からピストルを取り出し、三吉は槍を構えます。そこに殺到した捕方らはピストルと槍に一瞬驚きながらも攻撃してきます。そして龍馬のピストルが発射して捕方が怯んだ隙に、龍馬と三吉は裏階段を駆け下りると屋根を伝わって飛び降り、裏にある人家の中を通り抜け近くの材木置き場へ隠れました。この間、お龍は裏口から伏見の薩摩屋敷へ急を知らせるために走ります。龍馬は乱闘の際に左手の一指指の動脈を切られ多量の出血があり、三吉も龍馬を材木小屋に隠すと薩摩藩邸に救援を要請しました。こうして報せを受けた薩摩藩の救援により、龍馬は蕃邸に匿われ危機を脱出することができたのでした。




現在の寺田屋の建物は、鳥羽伏見の戦いの際に類焼した後、明治初年に再建されたもので、元は少し東の現在中庭のある部分に建っていたということです。再建改修により事件当時の姿とは違っていますが、一応、二階奥の「梅の間」には龍馬が襲われた際の刀傷や、龍馬が撃ったピストルの弾痕が残されています。(写真)
梅の間に掛けられた龍馬の画像の掛け軸は、寺田屋お登勢が嫌がる龍馬に勧めて町の画家に画かせた絵像といわれ、計らずも最後の姿になったもので京都円山公園の銅像のモデルとなったものということです。また、梅の間の横にある階段はお龍が裸で駆け登って龍馬に急を告げた階段。1階の入り口横の部屋は、寺田屋騒動の際に斬り合いが始まった部屋、その奥の中庭に面するのが女将お登勢の部屋です。(写真)
またお龍が入っていたという風呂桶等も残されています。また入り口から表庭には、「史跡寺田屋の石標(薩藩九烈士殉難の趾、坂本龍馬先生遭難の趾)」、「薩摩九烈士の碑」、「坂本龍馬銅像」、寺田屋の女将を祀る「お登勢明神」等があります。


京都には多くの幕末の史跡がありますが、そのほとんどは池田屋跡や近江屋跡など、ただ石標が残るのみのものがほとんどです。そういう点で、今も歴史を感じさせる寺田屋は貴重な存在といえるでしょう。

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