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伏見の街中には小さなお寺がいくつかあります。その中で少し知られた由緒あるお寺と神社を採り上げてみます。
伏見区瀬戸物町にある源空寺(げんくうじ)は、山号を宝海山と号し、正式には法然院源空寺という浄土州寺院で、円光大師(法然)の霊場二十五ヶ所の一つ(第十五番)に数えられているということです。
寺伝によれば、建久六年(1195)、三井寺の公胤僧正の弟子・忍空上人によって炭山(宇治市 山城木幡)の地に創建された天台宗の光堂寺と称した草庵が始まりでした。その後、法然上人が奈良大仏殿の落慶供養の帰途、炭山の地に立ち寄った際に、忍空上人は附近の人々と共に浄土宗に改宗し、法然の僧名「法然房源空」から「源空寺」と改めました。法然上人は別れに際し、これまで書写した法門や法語で作った張り貫の像を残しました。れが本堂に祀られる本尊円空大師(法然)坐像です。その後、慶長七年(1602)に江戸の幡随意上人が、この寺に立ち寄って現在の地に移し、慶長年間(1596〜1615)には徳川家康も建物を寄進したとも伝えられます。(二代将軍秀忠、三代将軍家光によって現在の地に移されたと伝わります。)その後本堂は嘉永元年(1848)に焼失しているようです。
二層から成る特徴ある山門は、伏見城から移築された遺構と伝わり、その階下の両脇には十六躰の石仏地蔵や愛染明王像、また豊臣秀吉に天下統一の大福を授けたといわれる朝日大黒天像が祀られています。
(写真)この大黒天像は秀吉の念持仏で、元伏見城の巽櫓にあったものが、一時京町大黒町に預けられた後、源空寺に移された経緯から、この地はかつて新大黒町とも呼ばれていたということです。
伏見区鷹匠町にある金札宮(きんさつぐう)は、社伝によれば奈良時代の天平勝宝二年(750)の創建と伝えられ、伏見区でも最も古い神社の一つということです。祭神は、天太玉命(あめのふとたまのみこと 白菊明神)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。
社伝縁起によれば、天平勝宝二年(750)大きな流れ星が降るという異変があって、時の孝謙天皇が憂慮していた時、伏見久米の里に白菊を植えている翁がいて、「吾こそは天太玉命である。天下の豊秋を喜んで年久しく秋ごとに白菊を賞でて来たが、もし干ばつで稲が枯れる時には白菊の露を灌ぐであろう」と語り、また「人々が一度この白菊の露に霑えば、福運が着いて家運は長く隆盛し、子孫繁栄し、火災の禍から除かれるであろう」と語ったということです。驚いた里人からこのことを聞いた天皇は、喜んで天太玉命(白菊大明神)を祀るように里人に命じて社殿を造営したと伝えられます。また社殿の造営中に、「長く伏見に住んで国土を守らん」と書かれた金の札が天から降ってきたということで、驚いて人々が集ま来ると、空から声がして、「我こそは天照大神より遣わされた天太玉命である。我を拝まんとすれば、なお瑞垣を作るべし」と、聞えたということです。また一説には、平安時代の清和天皇の時代に、橘良基に命じて阿波国(現・徳島県)より勧請したとも伝えられ、天皇が金札に白菊大明神と記して奉納したことから金札宮と号するようになったとも伝えられます。
謡曲「金札」も神社創建の伝説に由来する話です。桓武天皇が平安遷都の際、伏見の里に神社建立のため勅使を使わしました。この時、天から金札が降り下り、取り上げて見ると「伊勢大神宮の流を絶やさぬ為に、 天津太玉神を祀るように」との御神託が 金文字で書かれていました。謡曲「金札」は、この金札の故事を語り、天津太玉神が金札と弓矢で君の代と国土を守護し、悪魔を降伏させ、もう弓矢の必要はなくなったと謡っています。
金札宮は、その後、応仁の乱で焼失した後に再建され、豊臣秀吉の伏見城築城の際に伏見城の守護社として城に移されますが、関が原の戦いの伏見落城により現在地の北方に移されました。そして江戸初期に創建された、現在金札宮のすぐ横にある喜運寺の境内地に移された後、明治の神仏分離により現在地に祀られています。
境内中心にはクロガネモチの大木があり、江戸時代の宝暦四年(1754)に出版された「山城名跡巡行志第5」に御神木として記されています。クロガネモチはモチノキ科の常緑高木で雌雄異株であるが、この木は雌木で冬期には枝先に見事な赤い実をつけるということです。樹高は10.6m、胸高幹周は2.19mで数少ない古木として貴重なため京都市の天然記念物に指定されています。(写真)
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