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伏見区御香宮門前町にある御香宮(ごこうのみや)神社は安産の守護神として信仰され、伏見の名水「御香水」で有名な神社です。京都の中堅神社を集めた「京都十六社朱印めぐり」の神社の中でも特に良く知られた神社かと思います。
御香宮は、安産と子育ての神である神功皇后を主祭神として、仲哀天皇、応神天皇その他六柱を祀ります。創建については不明な点が多いですが、社伝によれば、当初は「御諸(みもろ)神社」と呼ばれましたが、貞観四年(862)四月、境内からたいへん香りの良い清泉が湧き出し、その水を飲むと病が回復するなどの奇跡が起こったことから、当時の清和天皇より「御香宮」の名を賜ったということです。
その後、室町時代には伏見九郷の総鎮守産土神として、伏見宮家を始め多くの人々により信仰を集めましたが、応仁の乱などの兵乱や天災により荒廃しました。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉が天下を統一した際は、さらに国外まで勢力を広げようと御香宮に願文と太刀(金熨斗付大刀 備前長光作 重要文化財)を奉納したと伝えられ、また文禄三年(1594)の伏見築城に際しては、鬼門除けの神として大亀谷に移設勧請し社領三百石を寄進しています。その後、慶長十年(1605)、徳川家康は再び元の地(現在地)へ戻して、現本殿(重要文化財)を建て、社領三百石を寄進しました。特に伏見で誕生して神社の名水「御香水」を産湯に使ったといわれる家康の子・徳川義直(尾張)、頼宣(紀州)、頼房(水戸)の御三家の藩祖三公は、御香宮を産土神と崇敬し、家康が本殿を造営した際には、表門は水戸の徳川頼房、拝殿は紀伊の徳川頼宣が寄進したと伝えられ、徳川家の庇護を受けて江戸時代を通じて御香宮は栄えたようです。
その後、幕末の慶応四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いの際には、御香宮には薩摩藩の陣営が置かれ、南の伏見奉行所に陣する幕府軍と戦いましたが、神社は幸いにして戦火を免れました。尚、明治以前は、「御幸宮」とも呼ばれ、「幸福」を招く神社としても広く人気を集めていたとも伝わります。
さて、御香宮の社殿は非常に豪華な装飾が印象的です。
本殿は、慶長十年(1605)、徳川家康が京都所司代の板倉勝重に命じて建立したもので、国の重要文化財に指定されています。大きな五間社流造、桧皮葺の極彩色の豪華な建物で、細部の装飾も華麗で桃山時代の大型社殿として価値が高いということです。また江戸時代、社殿を修復する際は、伏見奉行に出願して、その経費は紀伊、尾張、水戸の徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財でもって行われたということです。大修理時には、神主自身が江戸に赴き寺社奉行に出願して幕府直接の御寄進を仰いだ例も少なくなかったということです。
また、拝殿は寛永二年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家藩祖)の寄進によるものと伝えられ、京都府指定文化財に指定されています。桁行七間、梁行三間、入母屋造の本瓦葺の割拝殿で、こちらも非常に細部まで装飾が施された豪華な建物です。これら本殿・拝殿は近年、平成の大修理が行われ、桃山時代の豪壮華麗な極彩色が復元されたものです。
さらに表門は、元和八年(1622)、徳川頼房(水戸徳川家藩祖)が伏見城の大手門を拝領して寄進したと伝えられ、こちらも国の重要文化財に指定されています。三間一戸の切妻造、本瓦葺の薬医門(やくいもん)で、正面には中国二十四孝の物語が彫られた蟇股があり桃山時代の建築の特色を残した豪華な門です。
御香宮の名前の由来となった御香水(ごこうすい)は、「石井(いわい)の御香水」として、伏見の七名水の一つに数えられています。(「七つ井」と呼ばれた七名水は、石井(御香宮の御香水)の他、常盤井、春日井、白菊井、苔清水、竹中清水、田中清水でしたが、今では枯れたものもあり、近年新しく「平成伏見七名水」が選ばれています。これは一般に開放されている名水から選ばれていますが、御香宮の他は、城南宮(菊水若水)、藤森神社(不二の水)、長建寺(閼伽水)、月桂冠大倉記念館(さかみず)、鳥せい本店(白菊水)、清和荘(清和の井)の七ヶ所です。)
境内から水が湧き出し良い香りが四方に漂って、水を飲むと直ちに病気が治ったと伝わる御香水は、昔諸国を回ってきた猿曳が、肩に乗っていた猿にこの水を飲ませると忽ち元気になったという伝説も残っていて、非常に古くから知られた名水でした。井戸は明治時代に周辺の環境の変化で枯れてしまいましたが、昭和五十七年(1982)に本殿東側に復原され、地下150mから汲み上げられています。こうして現在も霊水として病気回復のためや、茶道、書道用に持ち帰る人が毎日訪れています。とにかく、御香水は伏見の名水の中でも一番有名で、京都の名水の代表として唯一、日本中の名水から選ばれた環境省選定の「名水百選」に認定されているので、京都一の名水ともいえるでしょう。
さて、知らない人いるようですが、御香宮には小堀遠州(小掘政一)ゆかりの石庭があり、拝観料200円を払うと見学できます。(拝観料には、神社のパンフレット代も含まれるので、まずまずリーズナブルではあります。)この枯山水庭園は、小堀遠州が伏見奉行に命ぜられた際に、伏見奉行所内に造った庭園の石を戦後この地に移して再現したものということで、小掘遠州の出世の切欠になった庭だと説明されています。小堀遠州は元和九年(1623)に、伏見奉行に任じられますが、この時に庁舎の新築を命ぜられて庭園を作庭します。後に寛永十一年(1634)に、上洛した三代将軍家光を奉行所に迎えた際に、家光から立派な庭園に感心したとして褒美として5千石加増され一万石の大名に列したということです。その後、明治以降に伏見奉行所跡は陸軍工兵隊、米軍キャンプ場と移り変わって、昭和三十二年に市営住宅地になった際に、庭は御香宮に移築されました。移築作庭は昭和を代表する造園家・庭園研究家の中根金作が行いました。庭園にある大きな手水鉢(写真)には、文明九年(1477)の銘があり在銘の手水鉢として非常に珍しいものということです。また、後水尾上皇が命名した「ところがらの藤」の木も移植されています。それ程目立った特徴の無い庭園ではありますが、機会があればご覧になっても良いかと思います。
その他、境内には、御香水の霊験説話を描いた「社頭申曳之図」他百数十の絵馬を保存する絵馬堂や、「伏見義民(天明の義民一揆)」の文殊九助(もんじゅくすけ)らの顕彰碑があります。(写真)
少し長くなりますが・・伏見義民に関する史跡は、伏見区には幾つか有るので少し書いてみます。
天明五年(1785)、時の伏見奉行・小掘政方(こぼりまさみち 有名な小掘遠州の六代目、和泉守)の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救って、自らは悲惨な最期を遂げた文殊(もんじゅ)九助ら七人を「伏見義民」といいます。
江戸時代の伏見は交通の要所として栄え、政治経済上の要地として幕府の直轄地として伏見奉行が置かれていました。安永八年(1779)に奉行となった小掘政方は、最初は善政を行っていましたが、次第に側近の影響で数々の悪政を行うようになりました。住民に重税や重罪を課して暴虐の限りを極め、賄賂政治や博打や遊興の限りを尽くして町民に強要した御用金は十万両に及んだと伝わります。
ついに、町年寄の文珠九助、丸屋九兵衛、麹屋(こうじや)伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛の七人は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を座視することに忍びず、密かに計画を練りました。そして奉行の追っ手に追われる等の苦心惨憺の末、天下の禁を破って江戸で幕府に直訴しました。この時願書は却下されたものの、結局、天明五年(1785)に小掘政方は奉行を罷免されました。しかし、文珠九助らも禁を犯した罪で投獄されて獄中で相次いで病死したのでした。
命を賭けて町を守った「伏見義民(天明の義民一揆)」の義挙が忘れられないようにと、明治二十年(1887)、伏見義民百年祭の機会に、その遺徳を顕彰する記念碑が建設されました。「伏見義民碑」の碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書です。毎年五月に慰霊祭が行われています。
また、御香宮の境内には東照宮、大神宮、豊国社、稲荷社、弁才天社等の末社がありますが、これら末社とは別に参道沿いに天満宮社があり、桃山天満宮とも呼ばれています。(写真)
桃山天満宮の由来ですが、その昔、御香宮の東に蔵光庵という寺がありましたが、室町時代の明徳年間(1390頃)に、寺の伴僧の月渓という者の夢に菅原道真(天神)が現れたということです。その数年後、月渓は同門の僧から菅原道真(天神)の画像を贈られましたが、その絵は夢で見た姿とそっくりでした。寺の住持幽林上人は、これを聞いて感激して蔵光庵の守護神として、寺の境内に天神を祀ったと伝わります。その後、文禄三年(1594)、秀吉の伏見築城の際、諸大名の屋敷を城の周辺に造らせましたが、この時、前田利家が自分の祖先は菅原道具公であるといって、天満宮の隣りに屋敷を賜って天神を丁重に祀ったということです。(尚、この時に、寺院=蔵光庵の方は、嵯峨の臨川寺の東に移されたとも伝わります。)そして江戸初期には「山ノ天神」とも呼ばれて、伏見の寺子屋の子供たちが二月と六月には必ずお参りしていたそうです。
しかし、元和九年(1623)の伏見城の廃城後は、次第に荒れ果てていったため、これを見た観音寺の住職教覚和尚が、町の中に移してお守りしようと努め、その勧進により篤信家の本谷市造、宮大工の阪田岩次郎が協力して二十年の歳月をかけて、天保十二年(1841)に社殿が完成しました。尚、その時使った大工道具約七十点は、完成御礼として神社に奉納され、今も貴重な道具文化財として保管されています。その後、天満宮は開発による周囲の環境悪化により、昭和四十四年(1969)に御香宮の境内に遷されました。
最後に御香宮では4月の例祭、7月の茅ノ輪神事、そして10月の神幸祭等の神事が行われていますが、特に伏見区最大の秋祭でもある神幸祭は、地区を代表する大祭であることから「伏見祭」とも呼ばれ、神輿の他に風流花傘行列など見所の多い人気ある祭りです。
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非常にきれいな歴史のある神社ですね。いっぱい写真を撮りたくなりますね。
2007/12/9(日) 午後 1:54
伏見区の有名な神社の一つですが、整った良い神社ですね。一見に値します。
2007/12/9(日) 午後 8:04 [ hir**i1600 ]