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南区上鳥羽岩ノ本町にある恋塚浄禅寺(こいづかじょうぜんじ)は、山号を恵光山(えこうさん)と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院です。
寺伝によれば、平安時代末期の寿永元年(1182)の文覚上人の開基で、境内に袈裟御前(けさごぜん)の首塚(恋塚)と伝わる五輪石塔があることから、恋塚の名で知られています。
この「源平盛衰記」等で語られる遠藤盛遠(文覚上人)と袈裟御前の悲恋は、平安時代以降広く伝えられていた説話ですが、現在では、菊池寛の小説「袈裟の良人」やそれを映画化した、カンヌグランプリ受賞映画「地獄門」(監督・衣笠貞之助 1953年大映作品)等で採り上げられて広く知られるようになりました。
一応ストーリーを・・・平安末期の鳥羽離宮の北面の武士(院の警護に当る武士)・遠藤盛遠は血気盛んな武勇に長けた者でしたが、同僚の渡辺左衛門尉源渡(みなもとわたる)の妻・袈裟御前に横恋慕して、彼女に強引に渡と縁を切ることを迫りました。袈裟は悩んだ末に、今夜、寝静まった頃に寝所に押し入って夫を殺して下さいと持ちかけます。喜んだ盛遠は、渡の屋敷に忍び込んで袈裟に教えられた通りに寝ている人の姿を探し出し、太刀で一突きし首を落としたところ、それは操を守るために夫の身代わりとして死を選んだ袈裟御前の姿でした。袈裟の気持ちを知って自分の罪を深く恥じた盛遠は、世の無常を感じて出家します。そして、文覚と名乗って全国を修行し、高雄神護寺に入りました。(その後、文覚が伊豆で頼朝に挙兵を促したという話も有名ですね。)
さて、浄禅寺は、寿永元年(1182)に文覚上人が袈裟御前の菩提を弔うために建立したと伝えられます。江戸中期の火災により寺伝資料を失い、寺の歴史は不明な点が多いようですが、その後天保年間(1830〜43)に再建されたと伝わります。本堂に平安時代末期に造られた本尊・阿弥陀如来立像を安置し、また袈裟御前の木像が祀られています。観音堂には平安時代中期の十一面観音立像(京都市指定有形文化財)を祀っています。境内には、袈裟御前の首を埋めた塚と伝わる五輪塔「恋塚」(写真)、正保四年(1647)にこの地の領主・永井日向守直清が林羅山に撰文させたという袈裟を顕彰した「恋塚碑」があります。(写真)
尚、「恋塚」については、江戸時代の京都案内「雍州府志」によると、本当は「鯉塚」で、昔、この寺付近の池の中に大きな鯉がいて、時々妖怪となるので土地の者が殺して塚を造って祀ったということが書かれています。
また、このお寺は、京都の「六地蔵めぐり」の一つ「鳥羽地蔵」でも知られます。
彩色された地蔵菩薩像が、地蔵堂に祀られていて、「六地蔵めぐり」の際は多くの参拝者で賑わいます。
六地蔵については、これまでに何度か書きましたが、平安時代初期に、歌人の小野篁が一度息絶えて冥土に行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後、一木から刻んだと伝わる六体の地蔵菩薩像のことです。その後保元二年(1157)後白河天皇が平清盛に命じて、京都に疫病が侵入しないようにと祈願させ、京都周辺の交通要所の六ヶ所に一体ずつ地蔵を安置させたと言うことです。京都では「京都六地蔵巡り」といって、毎年8月22・23日に京都周辺の六ヶ所の地蔵菩薩を巡って、無病息災や家内安全等の祈願をこめてお参りする行事があります。参詣者は、六つの地蔵菩薩にお参りして各寺で頂いた六色の御幡を家の入り口に吊るし護符とします。
六地蔵です・・
○鳥羽地蔵(浄禅寺)(南区上鳥羽岩ノ本町・旧大坂街道)
○伏見地蔵(大善寺)(伏見区桃山町西山・旧奈良街道)
○山科地蔵(徳林庵)(山科区四ノ宮泉水町・旧東海道)
○桂地蔵(地蔵寺)(西京区桂春日町・旧山陰街道)
○常盤地蔵(源光寺)(右京区常盤馬塚町・旧周山街道)
○鞍馬口地蔵(上善寺)(北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町・旧鞍馬街道)
今回は、上鳥羽にある「恋塚(浄禅寺)」でしたが、同様の言い伝えのある恋塚寺が浄禅寺の南方の下鳥羽にもあります。どちらが本物の「恋塚」か今ではまったく不明ですが、次回に下鳥羽の「恋塚」を採り上げてみます。
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