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伏見区下鳥羽城ノ越町にある恋塚寺(戀塚寺 こいづかでら)は、前回に登場した鳥羽地蔵(恋塚浄禅寺)と同じ遠藤盛遠(文覚上人)と袈裟御前の悲恋の伝説で知られるお寺です。
どちらが本物の恋塚伝説のお寺か?今となってはわかりませんが、伝説に興味のある方は、多分2つのお寺をセットで行かれるようにも思います。(前回の上鳥羽にある恋塚浄禅寺と今回の下鳥羽の恋塚寺との間は南北約2キロ程離れています。)
さて、恋塚寺は、山号を利剣山という浄土宗寺院です。寺伝によれば創建については、浄禅寺とまったく同じ由来になります。
多少、物語の展開には違いがあるようですが書いてみます(前回と重複になりますが)・・平安時代の末期、鳥羽離宮の北面の武士(院の警護に当る武士)の遠藤盛遠は、17歳の血気盛んな若武者でしたが、摂津渡辺の橋が完成したので供養の日の警護をしていました。その時に橋の袂で絶世の美女を見かけ、激しく心を奪われました。それは同僚の渡辺左衛門尉源渡(みなもとわたる)の妻・袈裟御前でした。
盛遠は袈裟が宮中に仕えていた頃から懸想をしていたのですが、袈裟は盛遠の心に応えず、3年前に源渡に嫁いでしまっていました。それでも諦めきれず、以来蝉の抜け殻のような気持ちでいた盛遠は、久々の出会いで恋への執念が高まり、それは見境の無い行動にまでエスカレートしました。
盛遠は思案の末に、袈裟の母・衣川のもとに行って、刀を抜いて娘と会わせないと殺すと強迫します。迷った母親は娘のもとに仮病を使って手紙を送り、只一人で来て欲しいと書き添えました。母の病気に驚いて駆けつけた袈裟の前で、母親は涙を流しながら事の次第を話し、盛遠に殺されるくらいなら、袈裟、お前が私を殺しておくれと小刀を出して泣きます。袈裟は盛遠の無理難題に驚きながら、しかし老いた母の命には代えられない、また夫のことを考えると胸が張り裂ける気持ち・・・苦悩の末結局、盛遠の申し出を承諾します。袈裟はすでに死を決意していたのでした。
袈裟は盛遠に、「本当に私のことを想って下さるなら、思い切って夫を殺してください。そうすればお互いに安心でしょう。夫の髪を洗って、酒を飲まして高殿に寝かせるので、濡れた髪を探って殺してください。」と言います。盛遠は大いに喜んで、夜討ちの準備をして日の暮れるのを待ちました。袈裟は家に戻ると、夫に多くの酒を勧め酔いつぶしていつもと違う奥の部屋に寝かせ、自身は髪を濡らして夫の鳥帽子を枕元に置いて、「露深き浅芽が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき」と辞世の句を書き終えました。そして暗い闇の中で運命の時が来るのを待ちました。
一方、盛遠は今夜の夜討ちが成功すれば、念願の袈裟が自分のものになるという浮き立つ心を押さえながら、闇夜にまぎれて屋敷に忍び込みます。そして、計画通り濡れた髪の毛を探って確認すると、一刀のもとに殺害し首をはねました。首尾よく成功したという安堵の気持ちで首を袖に包んで、月明かり下で見てみると、なんとその首は愛しい袈裟のものでした・・。
盛遠は袈裟の首を前にして、自分がいかに罪深い男なのか・・18歳にして世の無常をつくづく感じてしまいました。そして出家を決意して文覚と改めたと伝えられます。この恋塚寺はその後、文覚が袈裟の菩提を弔うため墓を設けて一宇を建立したのが起こりといわれています。
さて、恋塚寺は小さいお寺です。茅葺の山門を入ると、昨平成十八年(2006)に完成した新しい本堂があります。本堂には、本尊の阿弥陀如来像の外、袈裟御前、僧姿の源渡と文覚(遠藤盛遠)の三人の木像を安置しています。(写真左)ガラス越しに見ることになりますが、木造の他に、当寺の縁起を山脇秀故筆の絵巻「恋塚絵伝」、土佐光信筆の袈裟御前の肖像画等が展示されています。山門付近には恋塚の由来を書いた「重修恋塚碑」があります。(写真)
また、境内には、「恋塚」と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝える高さ数尺の宝筐院塔が建てられています。(写真)。この石塔は幕末の鳥羽伏見の戦いにより一度は消失しましたが、明治の中ごろに再建されたものということです。また寛永十七年(1640)に林羅山が撰文したという「鳥羽恋塚碑銘」の新しい碑があります。(ちなみに、前回の恋塚浄禅寺には正保四年(1647)に羅山が撰文したという古い石碑がありました。この関係はどうなのでしょうか?)
また、その傍の「六字名号石」は、法然上人(円光大師)の筆で文覚上人が建立した石板と言われ、この筆蹟は人倫の大道を教えるものとして、古来より詩歌、謡曲などで知られているということです。(写真)
尚、上鳥羽と下鳥羽に2つある恋塚ですが、この恋塚寺のパンフレットでは、前回に紹介したように、上鳥羽の浄禅寺の方は、「鯉塚」が転じたものという伝えを紹介していて、こちらの恋塚寺が「本当の恋塚」であるとしているようです。
その大きな根拠は、境内にある「六字名号石」です。石標には「渡辺左衛門尉源渡妻袈裟御前秀玉善尼之墓 天養元年六月文覚上人開基恋塚根元之地、嘉応二年建立」と刻まれていて、「恋塚根元之地」は本寺であると記されているからで、石標の年月日の天養元年(1144 文覚18歳の時)に開基、嘉応二年(1170)の建立は伝説には符合するようです。また、恋塚寺という寺号をもってしても、その縁起は明白であるとしています。
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