京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

伏見稲荷・深草・伏見桃山・鳥羽他

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城南宮その1

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伏見区の史跡を一旦終わらせる事にして、最後は城南宮(じょうなんぐう)です。
伏見区中島鳥羽離宮町にある城南宮(じょうなんぐう)は、一説では平安時代以前からの古社とも伝えられ、「方除け」の大社として知られています。また毎年の春秋に庭園「楽水苑」で行われる「曲水の宴」は、平安時代の雅な遊びを今に伝える行事として有名で、多くの観光客を集めています。



さて、城南宮の主祭神は、国常立尊(くにとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ 大国主命)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと 神功皇后)の三柱です。創建には諸説があるようですが(確実な記録としては、平安時代末期の院政時代に鳥羽離宮の鎮守社として祀られたことから始まります。)、ともかく社伝によれば、神社の創建は、3世紀(神功皇后三年 203年)神功皇后が新羅(いわゆる三韓征伐)遠征の際に軍船に立てた御旗に八千矛神の御霊を招き寄せて戦勝を祈願し、戦後この地に御旗を納めたことにはじまると伝えられます。(この御旗の日・月・星の紋章が城南宮の神紋の由来ということです)

尚、神功皇后の御旗に関する伝説は、前に採り上げた藤森神社の創建伝説に類似しています・・・藤森神社も同じく新羅遠征後に、神功皇后が深草の地に軍旗(軍艦旗)を立てて塚を作ったのがはじまりと伝えられ、古代におけるこの土地の歴史や両社の関係の深さを感じさせる伝説です。また現在、城南宮の境内摂社の一つになっている真幡寸神社(まはたきじんじゃ 式内社 現在の城南宮の元)は、古代に秦氏が一族の繁栄を祈って、元々は現在の藤森神社の位置に建てた社でしたが、その後、秦氏が伏見稲荷を創建した際(奈良時代初期)に、稲荷山の麓にあった藤森神社が遷座してきたために、より西方の現在の城南宮の地に遷座したとも伝えられています。
話はさらに少し外れますが、この真幡寸神社という神社は、創建時期の不祥な古社ですが、平安時代の弘仁七年(816)に山城國の式内社として官社に列せられた記録が残っています。かっては城南宮よりも由緒ある神社だったとも想像されますが、白河上皇に始まる院政期に鳥羽離宮が創建されると、離宮内に取り込まれ城南宮と混同一体化していったようです。(城南宮の創建に諸説あるのも、このような混同から来ているということも考えられます。)そして、明治時代になると、城南宮は「式内社・眞幡寸神社」の古名に復されることになり、第二次大戦後に再び城南宮と改称しています。一方、眞幡寸神社は現在では城南宮の境内摂社として祀られています。(写真)




さて、再び城南宮の社伝に戻れば、延暦十三年(794)の平安遷都の際、神功皇后の御旗を平安京の南のこの地に御神体として納め、国土守護の神・国常立尊を合祀し、以来、都の南方の守護神として「城南明神」と呼ばれていたと伝えられます。また一方で、平安中期にこの地に造られた城南寺という寺院の鎮守神として創祀されたという説もあり、この城南寺で毎年九月に行われた祭礼は「鳥羽城南寺明神御霊会(ごりょうえ)」と呼ばれ,祈雨の祈願や競馬(くらべうま)が盛大に行われたと伝わります。

その後、平安末期の応徳三年(1086)に白河上皇がこの地に鳥羽離宮(鳥羽殿)を創建すると、この地にあった神社も離宮の鎮守社として離宮内に祀られることになったようです。鳥羽の地は離宮の創建によって都が移ったかのように栄え、城南宮も離宮の守護神として崇められました。この頃に天照大神、応神天皇などが合祀され、代々の天皇や上皇がしばしば行幸したようです。また、毎年の離宮の祭事(城南祭)では競馬(くらべうま)や流鏑馬(やぶさめ)が鎌倉初期まで盛大に行われたと記録され、後に承久三年(1221)、後鳥羽上皇はこの城南流鏑馬の武者揃えと称して密かに兵を集め、鎌倉幕府打倒を目指して承久の変(承久の乱)を起こしたことは有名です。

また離宮は、平安時代末に盛んとなった紀州熊野三山への参詣(熊野詣)の出立地でもありました。
熊野詣への出立前には、参拝者は精進潔斎をして旅の無事を祈る慣わしがありましたが、白河上皇は寛治四年(1750)正月、鳥羽離宮に設けられた精進所に7日程籠って精進(斎戒)した後、熊野への初の参詣を行っています。以降、鳥羽・後白河・後鳥羽等歴代上皇も同様にしばしばこの地で精進(斎戒)して熊野へ向かいました。この熊野詣の安全を願う精進所や方角の災いを取り除く「方除け」の宿所に選ばれた事が、城南宮を現在まで方除け・旅行安全の神様として信仰させることになったのでしょう。また、神社はこの時代に初めて、平安京(城)の南に鎮座するところから「城南の宮」、「城南宮」と呼ばれるようになったようです。

その後、南北朝時代に鳥羽離宮は衰退し応仁の乱後は全く荒廃しますが、鎮守社の城南宮の方は細々と存続して上鳥羽・下鳥羽・竹田三ヶ村の産土神として崇敬され続け、城南祭(城南宮神幸祭)と方除け信仰も衰えることなく受継がれました。そして、江戸時代になると歴代皇室からの崇敬厚く再び社殿も復興し祭礼も盛大になったようです。(「城南離宮社」「方除けの城南宮」とも呼ばれていたようです。)
幕末の文久元年(1861)には、皇女和宮が江戸へ下向する際にこの地で道中安泰の祈祷が行われ、文久三年(1863)には、考明天皇が攘夷祈願に行幸しています。そして、慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いの際には、城南宮の境内は官軍(薩摩軍)の陣所にもなりました。(境内には「鳥羽伏見の戦跡」の立て札があります。写真)また同年(1868)、明治天皇は大阪行幸の途中で、この地真幡寸神社(城南宮)で昼食をとっています。(城南宮境内に「明治天皇行在所真幡寸神社」の石標が残っています。写真)
その後、先に書いたように、明治十年(1877)に、「延喜式内真幡寸神社」と公定されましたが、昭和二十七年(1952)に再び「城南宮」に復しています。




現在の社殿は、総檜造りの優雅な建物で、流れ造りの本殿、変形入り母屋造りの前殿、そして左右に伸びる翼廊が一体となった城南宮独特の複合建築です。檜皮葺の屋根や飾り金具まで平安後期の様式で再現されていて、昭和の再建にもかかわらず、厳かな雰囲気があるのは古式を忠実に模しているからでしょう。本殿を囲むように小さな末社が建ち並ぶ他、境内には、真幡寸神社、芹川神社、三照宮の三社があります。(写真)この内、真幡寸神社は、先に書いたように、平安時代以来の古社ですが、江戸初期に建てられた本殿が昭和五十二年(1977)に焼失し、現在の社殿は翌年再建されたものということです。
その他、境内の井戸は「菊水若水」と呼ばれて伏見の名水の一つになります。江戸時代の霊元法皇もこの水を飲んだと伝えられ、東大寺のお水取りの香水は、若狭遠敷川で汲み上げられた後、この「菊水若水」を通って、二月堂の若狭井に達すると伝えられているそうです。


次回は、庭園について少し書いてみます。

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