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左京区の一乗寺や修学院にある主な観光名所は、詩仙堂(それと野仏庵)を除けば、ほぼ出尽くした感じがします。今回はこの地域で一番有名な史跡・詩仙堂と、1年前に少しだけ採り上げた八大神社と狸谷不動院の記事を削除して書き直してみます。
その前に一乗寺という名前ですが・・元々この地には、平安中期から南北朝時代にかけ一乗寺という天台宗の寺がありました。康平六年(1063)に、上東門院(一条天皇中宮藤原彰子)によって園城寺(三井寺)別院として建立されたと伝えられ、天元四年(981)に比叡山延暦寺の山門衆徒と三井寺の寺門衆徒が対立した中で、寺門派の園城寺別当僧穆算(ぼくさん)が難を逃れて当寺に住んだということです。永延二年(988)には、円融法王が一夜を宿したこともあったようです。保安三年(1121)に延暦寺衆徒によって焼き討ちされ、その後再建されますが、南北朝の戦乱によって再び焼失し廃絶しました。(一乗寺跡という石標が付近の一乗寺灯篭本町の一乗寺集会所内にあります。)
そして現在、一乗寺といえば、まず思い浮かぶのが「一乗寺下り松(左京区一乗寺花ノ木町)」です。
この地にあった松の下で、慶長九年(1604)、江戸初期の剣客・宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘したという伝説が残されています。
宮本武蔵の生涯については、不明な点が多く(例えば、武蔵自身は有名な「巌流島の決闘」について何も記していません。因みに、若き武蔵はここで姓名不祥の「岩流」という中高年の剣豪を小さな決闘で倒したようです・・その後講談等で「佐々木」という苗字を勝手に付けられたこの豪傑男は、昭和になると吉川英治等のフィクションにより、「佐々木小次郎」という美剣士へと変貌していきます。)武蔵は晩年に、自分の生涯を多分に美化しながら「五輪書」等の兵書を残しました。また水墨画や書にも才能を発揮しました。「五輪書」や書画は優れた精神性を感じさせるものとして、後世に武蔵人気を生み出し、武蔵の生涯も美化されて様々な伝説・フィクションを生むことになりました。
さて、武蔵にとって「巌流島の決闘」のようなローカルな戦いより重要な決闘が、吉岡一門との戦いでした。三度にわたって戦いがあったようですが戦闘の詳細は諸説があります。一般的に伝わるのは・・宮本武蔵が、吉岡清十郎と蓮台野(北区)で剣術試合を行って勝ち、またその弟の伝七郎と洛外で戦って一撃で殺害します。これにより吉岡の門人達の恨みを買い、清十郎の子・又七郎ら数十人の門人は、一乗寺下り松の地で武蔵を待ち構えます。この時の戦いでは、武蔵はたちまち又七郎を斬って、驚くその徒党の者を退けて悠然と立ち去ったと伝わります。
「下り松」と呼ばれて古くから旅人の目印として植え継がれてきた松の樹は、現在四代目にあたるということで、大正十年(1921)に建てられた「宮本・吉岡決闘之地」という石碑が建っています。また、この地から東にある八大神社には当時の松の古木が保存されています。
「宮本・吉岡決闘之地」の右側にあるのが昭和二十年(1945)に建てられた「大楠公戦陣蹟」という石碑です。
「太平記」によると、建武三年(1336)正月、足利尊氏は80万とも号する大軍を率いて京都に進攻し都を制圧します。これに対し、一旦、近江坂本に逃れた後醍醐天皇軍は、二十七日の早朝から京都奪回の総攻撃を仕掛けました。楠正成、結城宗広、名和長年は3千余の兵で比叡山山麓の坂本を経由して、この一乗寺下り松に陣を張りました。さらに東北から来援した北畠顕家は3万余騎を率いて山科に、洞院実世2万余は赤山禅院(左京区)付近に、延暦寺衆徒1万余人は鹿が谷(左京区)に、新田義貞・脇屋義助兄弟2万余は北白川(左京区)に陣取りました。この奪回作戦は見事に成功し、敗れた足利尊氏軍は丹波から神戸、摂津へと各地を転戦しながら逃れ、九州へと落延びました。しかし、この後醍醐天皇軍の大勝利は、最後の一瞬の輝きに過ぎませんでした・・・・再起を図って東征した足利軍は京都を奪回。後醍醐軍の中心人物、楠正成・名和長年・千種忠顕・北畠顕家・新田義貞らは各地で敗死し、南北朝の分裂は決定的になります。
一乗寺にあるこの石標は、京都奪回戦の際の楠木正成の陣所の跡を示すもので、碑文には「我か国悠久三千年、必ずしも文武智勇の人は乏しくなかったが、楠公の貴い所以は、其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在るのである。このような楠公精神こそ以て新に樹立すべき産業日本の指針たるべく、また永く興隆すべき平和日本の標幟たるものである。よって即ち新に陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり」と記され、昭和二十年(1945)という激動の年を感じさせる文面が刻まれています。
その他、一乗寺付近には、他に「忠成公隠棲地(忠成公=幕末の公家・三条実万の隠棲地跡)」、「宮内少輔城址(戦国の土豪・宮内少輔渡辺昌の城館跡)」等の石標があります。
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