|
左京区一乗寺松原町にある八大神社は、今では「宮本武蔵」ゆかりの神社として知られます。
吉川英治「宮本武蔵」では、武蔵が一乗寺下り松の決闘の前に神社に立ち寄るシーンが登場します。武蔵はここで今日の戦いに勝たせたまえと祈りかけますが、その気持ちを振り払って、祈ることなく決闘に向かいます・・武蔵が自分の壁書としていた「独行道」の中にある「我れ神仏を尊んで神仏を恃まず」という信念を、この時に悟ったのでした・・・。境内には中村錦之助の宮本武蔵の映画の写真が貼られ、平成十五年(2003)に八大神社御鎮座七百十年と武蔵の決闘四百年の記念事業として建てられたブロンズ製の宮本武蔵像が迎えてくれます。
さて、八大神社は、鎌倉時代の永仁二年(1294)の創建と伝えられる一乗寺地域の産土神で、古くは一乗寺八大天王社とも呼ばれました。祭神は、祇園社(八坂神社)と同じ三神・素盞鳴命(すさのうのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、八王子命(はちおうじのみこと)です。そのためか、古来「北天王(北の祇園社)と称されて皇居守護神十二社中の一つにも数えられ、都の東北隅の表鬼門に位置することから方除、厄除、縁結び、学業の神として信仰を集めたということです。社殿は応仁の乱で焼失ますが、桃山時代の文禄五年(1596)に再建されました。江戸時代には、後水尾天皇、霊元天皇、光格天皇等が修学院離宮行幸の際には立ち寄って白銀等を奉納したということです。嘉永二年(1849)に社殿を造営しています。
さて、話は少し変わりますが、この一乗寺周辺には、室町時代の永享十年(1438)に「藪里牛頭天王社」、「舞楽寺天王(八王子)社」という2つの神社が創建されました。
藪里牛頭天王社という神社は、前にこの一乗寺にある小さな神社・柊社(比良木社 一乗寺青城町 八大神社の御旅所でもあります)を採り上げた時に書きましたが、一乗寺青城町付近にあった神社のようです。この付近は平安時代には下鴨神社の領地と定められ、長らく賀茂氏の氏祖神を祀る「藪里の総社」があったと伝えられます。そして永享十年(1438)に八坂神社(祇園社・牛頭天王社とも)と同じ祭神、牛頭天王を勧請されたことから、藪里牛頭天王社と呼ばれるようになり、一条寺藪里村の氏神として信仰されていたようです。
また、舞楽寺天王(八王子)社は、比叡山麓地域(江戸期の名所図絵では舞楽寺村山腹にあると記されます。)の産土神の一つで、藪里牛頭天王社と同年の永享十年(1438)に創建され、一乗寺八大天王社(八大神社)と同神を祀っていました。この地はかつて舞楽寺という比叡山延暦寺の末院があったと伝えられ、紅葉の名所としても知られていたようです。その跡地は現在の金福寺の東側に石碑として残っています。
さて、明治時代になって、八大神社には以上の2つの神社が合祀されました。明治六年(1873)に藪里牛頭天王社、明治七年(1874)に舞楽寺八大天王社が合祀され、八大神社は一乗寺村全体の産土神となりました。(尚、藪里牛頭天王社の故地には分霊が祀られ、柊社(比良木社)となりました。)その後、大正十三年幣官供進神社に指定され、大正十五年(1926)に現在の本殿を造営。平成五年(1993)の鎮座七百年祭に際に、社殿改修や参集所新築等が行われています。
さて、八大神社の一の鳥居は、神社から坂を下った一乗寺の下り松の北側にあります。(写真)
ここから少し登ると詩仙堂の横に二の鳥居があり、鎮守の森に沿った参道を進むと、その先に境内が広がります。
本殿の右には、摂社の皇大神宮社をはじめ、日吉・八幡・諏訪・春日・新宮・赤山・貴布祢・加茂・柊等の末社、また少し山を登った所には常盤稲荷神社が祀られています。(写真)本殿西には、昭和二十年(1945)から宮本武蔵が吉岡一門と決闘した当時の下り松の古木が保存され、武蔵のブロンズ像が建っています。(写真)また、八大神社の鎮守の森には、岐阜県本巣郡根尾村から平成五年(1993)の、八大神社の鎮座七百年祭の記念に植樹された国指定天然記念物の「淡墨桜(うすずみざくら)」が植えられています。
|