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今回初めて訪れたのが、平家物語ゆかりの人物のお墓・・・日野と醍醐の境界線近く、醍醐外山街道町(そとやまかいどうちょう)にある「平重衡の墓(平重衡の塚)」です。
情報によれば、醍醐から日野に南北に通る旧奈良街道と、日野西部を横切る小さな合場川が交差する辺りにあるようですが、中々見つかりません。仕方なく付近の方に尋ねると、「ああ、義経の何とかいう・・」と公園の場所を教えてくれました。公園の中にあるという情報が無ければ多分見つからなかったでしょう。
新興住宅地に囲まれた公園のほぼ中央に「従三位平重衡卿墓」と刻まれた石標があり、横には五輪塔が並んでいるようです。(写真)
平重衡(1157〜85)は、平清盛の五男で、母は平時子(二位の尼)、同母兄弟に宗盛・知盛・徳子(建礼門院)等がいます。
重衡は武勇に優れ、源氏との戦いでは幾度も大将を務めました。治承四年(1180)以仁王と結んだ源頼政が反乱を起こした際は、重衡は兄知盛と共に京都宇治に反乱軍を鎮圧します。同年冬には、南都の興福寺・東大寺が挙兵し、この時、重衡は南都攻撃の総大将に任じられました。この戦いでは、東大寺の大仏殿をはじめ興福寺・東大寺の全ての伽藍が焼失することとなり、平家及び重衡の悪名が高まることとなります。その後も、養和元年(1181)の墨俣川の戦いで源行家を破り、寿永2年(1183)には、木曽義仲の派遣した先鋒軍を水島の戦いで、室山の戦いでも行家を破るなどの活躍をしますが、翌元暦元年(1184)の一ノ谷の戦いで捕らえられ鎌倉に護送されました。
鎌倉では源頼朝により丁重に扱われますが、東大寺や興福寺の衆徒の要求により前年の南都焼打の責を問われ、身柄は南都に引き渡されることになりました。
一方、平重衡の正妻・大納言佐(大納言典侍 藤原輔子)は、壇ノ浦の戦いの際に、入水するも捕えられ、その後、日野の地にいた姉を頼って隠棲していました。護送の途中で日野に差し掛かった時、重衡は護送の武士に、近くに妻が住んでいるので最後に一度会って後生のことなどを伝えたいと頼みます。武士達も哀れに感じこれを許し、重衡は報せを聞いて急いで駆けつけた大納言佐と感動的な対面を果たします。この重衡と大納言佐の最期の別れは「平家物語」の中でも最も哀れを誘う印象的な場面の一つになっています。
こうして、文治元年(1185)6月、重衡は木津川の河原で斬首されました。首は南都衆徒に渡され、奈良坂にさらされました。遺骸は大納言典侍がすぐさま引き取って、日野法界寺で荼毘にふし、火葬した遺骸を埋葬した場所に塚を築いて、骨は高野山へ納めたと伝わります。現在ある「平重衡の墓」は、その埋葬地といわれています。
尚、その後、大納言佐は出家して大原寂光院で建礼門院に仕えて、その最期を看取ることになります。
そのお墓は、寂光院の西に静かに佇んでいます。
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