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前に掲載した「萩の寺(常林寺)」以外に、これといった観光名所の無い、京都市左京区田中から小さなお寺を採り上げます。有名な観光名所でも無いので、他のお寺とセットで採り上げても良いのですが、この地域には他に目立った史跡が無いので単独で書いてみます。
左京区田中上柳町にある光福寺は、正しくは干菜山(ほしなざん)斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗知恩院派の寺院で、俗に「ほしな寺」と呼ばれています。
寺伝によれば、鎌倉時代の寛元年間(1243〜47)に東福寺の開山として知られる円爾辨円(えんじべんえん 聖一国師)の弟子・道空上人が西山安養谷(あんようがたに 長岡京市)に建立した斎教院という寺院が当寺の起りと伝えられ、また文永元年(1264)に、道空が師命で浄土宗に転じて天帝釈の霊験を得て創建したとも伝えられます。翌文永二年(1265)に、亀山天皇より六斎念佛総本寺の勅願を賜りました。また正和ニ年(1313)には、花園天皇から常行六斎念仏の号を賜ったとも伝わります。その後、室町時代の永正十六年(1519)に、道空上人の六斎念仏普及の由緒をもって、再び、後柏原天皇から斎念仏総本寺の勅号を賜ったということです。
さて、この六斎念仏というのは、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能です。
今も京都各地の寺院及び保存団体によって伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
六斎念仏がいつ頃から始まったのかは不明ですが、平安時代に空也上人が、仏教の忌日である六斎日(8、14、15、23、29、30日の六日)に、京都の市中で、念仏を唱え鉦や太鼓を叩いて「踊躍念仏」を広めたことが起源といわれていて、現在は京都各地でお盆をはじめとする行事の際に行われています。
尚、六斎念仏は、江戸時代になると念仏踊を中心とする従来の「念仏六斎系」の他に、浄瑠璃等の要素を取り入れたより風流・娯楽化した「芸能六斎系」が登場して、今日までこの二系統に分れて伝承されています。また、六斎念仏には、空也堂の傘下の「空也堂系」と、今回の光福寺傘下の「干菜寺系(光福寺)」の二つがあり、各六斎念仏団体はどちらかの寺院から免許を与えられその傘下に入っていました。(尚、明治以前は「干菜寺系(光福寺)」が盛んでしたが、現在は「干菜寺系(光福寺)」は西方寺の六斎念仏が残るのみで、その他の六斎念仏は全て「空也堂系」になっています。)
さて、光福寺は、その後、天正十年(1582)に、月空宗心(げっくうそうしん)上人によって現在の地に移されました。文禄二年(1593)には、豊臣秀吉が鷹狩の途中に当寺に立ち寄ったということで、この時、住職宗心が干菜(ほしな 干した菜っ葉)を寺の窮状を表すためにわざと献じたところ、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられ、手厚い援助を得たともいわれています。
光福寺の本堂には、正和二年(1313)に、花園天皇から賜ったという閉目の阿弥陀如来像を安置し、収蔵庫には、六斎念仏興起書等の諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓及や秀吉画像等を収納しているということです。また、観音堂(地蔵堂)は五代住職正慶上人が建立し、その後江戸時代に再建されたものを、昭和五十五年(1980)に改築建立したもので、江戸時代中期の作と思われる如意輪観音菩薩像や火除けの地蔵菩薩像等を安置しています。
庭には、月空宗心上人が故郷宇津より移したという井戸や、正保二年(1645)、宗心から4代目の住職・宗圓上人が、境内に再建した鎮守社の八幡宮の玉垣があります。この八幡宮建設にあたって、宗圓は資金を集めるために下鴨神社の糺の森で勧進相撲を企画しました。そして、その見物人らの喜捨によって八幡宮が建てられたようですが、現在は玉垣のみが残っています。(写真)
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