|
伏見区にある小さな史跡は私も未知の場所が多く、情報が少ないために京都市の観光案内、区役所の情報に基づいて書いてみます。今回は小堀遠州の墓があるという仏国寺(ぶっこくじ)です。
伏見区深草大亀谷古御香町にある仏国寺は山号を天王山という黄檗宗寺院です。
江戸時代の延宝六年(1678)、高泉(こうせん)和尚が、この地にあった永光寺という寺院を再興して仏国寺と名付けたのが始まりと伝えられます。高泉和尚は中国福清(フーチン)の人で、寛文元年(1661)に隠元禅師の招きで来日して萬福寺第5世となり、元禄八年(1695)に歿しました。仏国寺は後水尾上皇より「大円覚」の宸筆勅額を賜わって、当時は講堂を完備していましたが、明治維新後には荒廃して、現在本堂と庫裏を残すのみになっています。
尚、本堂には釈迦三尊像と毘沙門天像を安置しています。この毘沙門天像は、高泉和尚が付近の薮の中に散逸していたものを拾い集めて修造した霊像といわれています。他に境内には、正徳元年(1711)に鋳造された青銅製の「開山高泉碑(重要文化財に指定)」があり、鋳造した中国風の銅碑として有名で、高泉和尚の教えをうけた近衛家熈(いえひろ)の撰文ということです。(写真)境内の墓地には、清水寺の乞食の群れに加わったり、自由な生き方を通じて様々なエピソードを残したことで知られる禅僧・桃水雲渓(とうすいうんけい)和尚の墓や歴代住職の墓等がありますが、中でも最も有名な人物は江戸初期の大名で、茶人・作庭家として知られる小掘遠州でしょう。
小掘遠州(小堀遠江守政一 1579〜1647)は、近江(滋賀県)の浅井氏家臣・小掘正次の子として生まれました。父正次は、浅井氏滅亡後は豊臣秀吉に仕え、また関が原では東軍に属して戦功を立て、備中松山(岡山県高梁市)に任じられます。遠州(政一)は慶長九年(1604)に父の跡を継ぎ、その後は近江奉行や伏見奉行などを歴任し、また備中松山城や駿府城、御所、二条城等の作事奉行を務めて各地で建築や作庭に優れた才能を示しました。尚、伝遠州という庭園は全国に数多くあるのですが、京都では大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院庭園、南禅寺方丈庭園、仙洞御所庭園、正伝寺庭園等に関わったということです。また若い頃から利休の高弟・古田織部に茶道を学んで、晩年には将軍家の茶道指南に任じられ、千利休の簡素と静寂を旨とする侘び寂びに対して「綺麗さび」といわれる雅な様式を採り入れた遠州流茶道の祖となりました。多方面に才能を発揮した遠州は、正保四年(1647)に伏見奉行屋敷で死去しましたが、江戸初期を代表する建築や庭園を今も各地に残し、茶道や華道の流派の祖として影響を与えて続けている人物といえるでしょう。
さて、仏国寺にある小堀遠州の墓は、案内を請わないと発見することはまず不可能です。
新しい墓地から少し下った暗い林の中に江戸期あたりの古い墓が立ち並んでいますが、その中にも見当たりません。これまでも見つけ難い墓を探してきましたが、仏国寺の墓地は迷うほどの墓の数でも無いのに遠州の墓だけが見つからない感じなのです。お寺の方に案内してもらってわかったのは、古い墓地の一番奥に木々が茂って向こう側がまったく見えない一角があり、その中に遠州の墓だけが寂しげに立っていました。墓までわずか数メートルですが、10匹ばかりのコガネグモが巣を作って道を塞いでいます。足元も手入れされていないため落ち葉や倒木で気持ちの悪い状態です。(お寺の方のお話しでは、茶道か華道か、ともかく遠州流の方は手入れに来られないということでした。)昭和五十七年・・と墓の横の新しい石標に書かれていて、その頃は整備されていたのでしょうが、今は墓地の中でも一番忘れられたような場所になっていたことには少しショックでした。観光寺院と違って小掘遠州の名前をお寺の宣伝等に使われていないということの顕れでもあるかもしれませんが、少し整備してお参りできるようにした方が良いようにも思いました。
|
一度お墓詣りに行きたい人のお寺です。恐らく小さなものでしょう。桃水禅師、またの名を乞食桃水といいます。この写真を見て是非とも行きたくなってしまいました。仏国寺で検索したらこのブログがありましたので、コメントいたしました。
2009/11/4(水) 午後 2:29 [ 新千暖荘 ]
ご訪問ありがとうございます。この記事を書いたのは2年前ですが、現在の墓の様子はどうなのでしょう・・いつか機会あれば再訪問したいと思います。
2009/11/4(水) 午後 6:24 [ hir**i1600 ]
ありがとう、貴重な資料
2012/7/22(日) 午後 9:55 [ 中路正樹 ]