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伏見区深草坊町にある、茅葺の草庵風の山門・本堂が印象的なお寺が瑞光寺(ずいこうじ)です。
開祖元政上人の名から「元政庵(げんせいあん)」の別名があり、また元政上人が竹を好んだことから「竹葉庵」とも呼ばれるそうです。
瑞光寺(元政庵)は、山号を深草山(じんそうざん)と号する日蓮宗身延山久遠寺派の寺院です。
この地は、もと極楽寺(現在の宝塔寺の前身で、藤原基経が創建した真言宗寺院。伏見区深草宝塔山町)の薬師堂の旧跡で、応仁の乱により荒廃していましたが、江戸時代の明暦元年(1655)、元政上人が日蓮宗の寺とし、瑞光寺と名付けたといわれています。
元政上人(1623〜68)は、俗名を石井吉兵衛といい、元和九年(1623)に京都の元毛利輝元の家臣石井家に生まれました。兄元秀が近江彦根藩主井伊直孝に仕え、姉(春光院)も直孝の側室だった関係で、13歳で井伊直孝に近習として仕えました。しかし、多病だったことも原因のようですが、やがて出家を考えるようになり、中国天台宗の聖典・天台三大部(「摩訶止観」「法華玄義」「法華文句」)の読破を決意します。また生涯父母に孝養をつくそうと誓ったということです。
こうして慶安元年(1648)、26歳の時で出家し、京都の法華宗妙顕寺第一四世僧那日豊(にっぽう)上人の門下に入りました。そして、明暦元年(1655)に旧極楽寺跡に草庵を結んで、中国の高僧・章安大師が住んだ称心精舎の故事にちなんで称心庵と名付けました・・これが瑞光寺の始まりになります。
その後、元政上人はこの草庵で修行に励むと共に、父母を引き取って孝養に努め、また多くの著作や詩文を記して当時の著名な文人や宗内外の学者等と親交を結びました。こうして元政上人は学者、文人、孝子として世に知られ、特に上人の孝心は、古人の句に「元政の母のあんまやきりぎりす」と詠われる程有名だったようです。万治二年(1659)上人36歳の時に、父元好は87歳という長寿で亡くなり、上人は母と共に父の遺骨を奉じて身延身延山久遠寺、池上本門寺に詣でています。
その後、寛文元年(1661)称心庵の仏堂が完成し、中正日護作の釈尊像を安置して瑞光寺と改めました。寛文七年(1667)、母妙種は87歳の長命で死去します。父母共に87歳という当時としてはたいへんな長寿を全うしたのは、元政上人が生涯をかけて孝養を尽くしたためと言っても良いでしょう。しかし、若年より様々な病気に悩まされた上人自身の生涯は短いものでした。親より先に死ぬことは一番の親不幸と考えていた上人はその目的が達したためか、母親の死を看取った直後に病をえて、翌寛文八年(1668)正月末に46才で亡くなりました。遺命によって遺骨は瑞光寺の西に葬られ、竹三本をもって墓標とされました。
さて、茅葺の山門を潜ると、それ程広くない前庭が広がり本堂、鐘楼、庫裏等があります。本堂(寂音堂じゃくおんどう)は、寛文元年(1661)に建立された総茅葺屋根の優しげな印象の建物で、この仏堂を見た元政上人は、庵を「深草山瑞光寺」改めたということです。堂内の中央には、胎内に法華経一巻と五臓六腑を形作ったものが納められた釈迦如来座像があり、この仏像は中正院日護上人の作と伝えられます。また奥殿には元政上人を始め御両親、歴代上人を祀っています。他に境内には、元は旧極楽寺薬師堂に番神山として祀られていたという三十番神社(天照大神、八幡大菩薩等全国の総氏神を一堂に祀っています)、白龍銭洗弁財天等があります。尚、毎年3月18日には「元政忌」が行われ、上人の遺品等が公開されています。
尚、瑞光寺は縁切り寺としても知られます。これはあくまで伝説ですが、元政上人出家の原因として、江戸吉原の高尾太夫の死がきっかけだったという話に基づいています。
元政上人がまだ井伊家に仕えて江戸屋敷にいた頃、吉原の三浦屋高尾太夫(みうらやたかおだゆう)と恋仲になりましたが、仙台藩主の伊達綱宗が高尾太夫に横恋慕し、悩んだ高尾太夫は元政に操を立てて自殺してしまいます。この事件のショックから元政は世をはかなんで出家したという物語です。この話が広まり縁切り祈願の信仰を集めることになったということです。
最期に、上人の墓について補足します。
京都市の掲示板によれば「上人の墓は、境内の西隅にあり、遺命によって竹を三本立てただけの簡素なものである。」と書かれていますが、実際は境内西隅ではなく、一旦門外に出てJR線路下を潜った飛び地にあります。この飛び地は、元々境内の一部でしたがJR線の開通で分断されてしまったもので、上人の墓だけが静かに佇んでいる空間になっています。
上人の塚の上の三本の竹は、一本は、法華経広宣流布のため、一本は衆生救済のため、一本は両親のためという意味が込められているということで、清貧を旨として自分の為ではなく他の人々の為に尽くした元政上人の人柄が偲ばれる印象的なお墓だと感じます。
元禄時代に、水戸藩主徳川光圀が上人の親孝行と優れた人柄を称えようと「嗚呼孝子元政之墓」という立派な墓碑を寄進したいと寺に申し出ますが、上人の遺言が「竹三本以外の何物も立ててはならない」というものだったことを知って断念したというエピソードが残り、遺言通り今も墓石が置かれていません。近年、徳川光圀のエピソードを解説した石碑と、「嗚呼孝子元政上人之廟」の石碑が側に建てられています。
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