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伏見区は古くから栄えた地域で多くの史跡が残っています。京都で最も天皇陵が集中している地域でもあり、今回は、伏見区深草にある仁明天皇深草陵(にんみょうてんのうふかくさのみささぎ)と、桓武天皇に関する史跡でもある浄蓮華院(じょうれんげいん)を採り上げました。
京都市伏見区深草東伊達町にある仁明天皇深草陵(にんみょうてんのうふかくさのみささぎ)は、平安時代の第54代仁明天皇の陵墓(方形墓)です。天皇陵の参道は、近所の方の私道のような印象で、人家に囲まれている印象の強い天皇陵です。(写真)
仁明天皇は、嘉祥三年(850)に崩御して山城国紀伊郡深草に葬られ、陵墓を守るために嘉祥寺という寺院が創建されました。(嘉祥寺についてもブログに採り上げます)しかし、現在は嘉祥寺の位置も代わり、仁明天皇の正確な埋葬地も不明です。(現在の仁明天皇陵は、長らく不明だったものを幕末に定めたもので、信憑性を欠く天皇陵といわれています。現在より北にあったことは確実のようです。)
さて、仁明天皇は、平安時代初期の天皇で、嵯峨天皇の第2皇子でした。歴史的にそれ程重要な天皇ではありませんが、治世に「承和の変」という藤原氏が台頭する切欠となった事件があり、天皇家皇位(王統)の相続形態に変化をもたらした天皇として知られます。
平安京の創始者・桓武天皇の子孫たち、いわゆる桓武朝は、親から子へという直系相続ではなく、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立が行われたことが知られています。「藤原種継暗殺事件」や「平城太上天皇の変(薬子の変)」等の大きな事件が起こると、結果として一時的に直系相続を生みますが、皇位迭立は存続して、特に嵯峨・淳和天皇の時代の皇位迭立は兄弟間で相手の子供に皇位を譲るという複雑なものになりました。
○桓武天皇(弟・早良親王を皇太子にするも、「藤原種継暗殺事件」に連座して廃位。代わって子の安殿 親王(平城天皇)を立太子)
○平城天皇(弟の嵯峨天皇に譲位)
○嵯峨天皇(甥の高岳親王(平城天皇の子)を皇太子にするも、「平城太上天皇の変(薬子の変)」に連 座し廃位。代わって弟・大伴親王(淳和天皇)を立太子)
○淳和天皇(甥・正良親王(嵯峨天皇の子・仁明天皇)を立太子)
○仁明天皇(従兄弟・恒貞親王(淳和天皇の子)を立太子するも、「承和の変」に連座し廃位。代わって 自身の子・道康親王(文徳天皇)を立太子)
さて、兄の平城天皇から皇位を譲られた嵯峨天皇は、その後、兄の上皇が再び政治的野心を抱いために、これを軍事的に圧倒し兄を出家させます。(平城太上天皇の変(薬子の変))その後、兄弟の対立が王統を危うくしたことの反省か、また自身の子を皇太子にすることを憚ったためか、嵯峨帝は、弟の大伴親王(淳和天皇)を皇太子にします。即位した淳和天皇は、今度は甥にあたる嵯峨の子・正良親王(仁明天皇)を立太子し、即位した仁明天皇は、今度は従兄弟にあたる淳和の子・恒貞親王を立太子します。このように、嵯峨と淳和の兄弟帝は、子の代まで交代に皇位を譲り合ったのでした。
しかし、主に上皇として絶大な権力を握っていた嵯峨帝の意思によって行われたこの相続形態は、嵯峨の死によって脆くも崩れます。
承和七年(840)に淳和上皇が死去、承和九年(842)に、嵯峨上皇が重病に陥ると、有力貴族の後ろ盾のない皇太子・恒貞親王(淳和天皇の子)の立場を危惧した皇太子に仕える伴健岑(ばんのこわみね)、橘逸勢(たちばなのおとせ)らが恒貞親王を東国へ移すことを画策します。しかしこの計画は露見し、嵯峨帝が亡くなると陰謀関係者は直ちに逮捕されました。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人として流刑に処し、恒貞親王も皇太子を廃されました。この「承和の変」の結果、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進し、仁明の子・(藤原良房の孫)道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となります。こうして、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立は一旦終わって、仁明・文徳・清和・陽成と続いく直系相続が行われます。
ついでですが、仁明の後継天皇は幼帝が多く、権力は外戚・藤原良房、基経が握ることとなります。
○文徳天皇(藤原良房の圧力で、子の惟仁親王(清和天皇 藤原良房の孫)を立太子。
○清和天皇(9歳で即位。藤原良房が実権を握る。子の貞明親王(陽成天皇)に譲位)
○陽成天皇(9歳で即位。藤原基経により退位させられる。)
陽成天皇を退位に追い込んだ藤原基経は、後継者を探して、再び3代溯った仁明天皇の第3皇子を担ぎ出します。この光孝天皇は、「全てを基経に任せる」と語り、基経の権力は絶大なものとなりました。
○光孝天皇(前天皇の大叔父。藤原基経により55歳で天皇に擁立。子の定省親王(宇多天皇)を立太 子。
○宇多天皇(子の敦仁親王(醍醐天皇)を立太子)
○醍醐天皇(子の寛明親王(朱雀天皇)を立太子)
○朱雀天皇(男子無く、弟の成明親王(村上天皇)を立太子)
○村上天皇(子の憲平親王(冷泉天皇)を立太子)
しかし、光孝・宇多・醍醐・(朱雀)・村上と続いた直系相続は、村上天皇死後には、政治の実権を握る藤原氏の都合により、再び王統の迭立に変化していきます。以後の冷泉・円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀と続く王朝は全て兄弟か従兄弟間の相続でした。
仁明天皇深草陵が長くなりましたので、この天皇陵から歩いて数分の浄蓮華院を出きるだけ簡単に書いてみます。浄蓮華院の境内には幼稚園のような遊具が置かれ、音楽学校・・という看板も掲げられていて特に採り上げる程の寺院には見えないのですが、意外と面白い経歴があります。
さて、伏見区深草鞍ヶ谷町にある浄蓮華院は、天台宗妙法院派の寺院で本尊は阿弥陀如来、深草毘沙門天とも呼ばれています。江戸時代の文政四年(1821)に、比叡山の僧尭覺(ぎょうかく)上人が有栖川宮韻仁(つなひと)親王の命により、桓武天皇菩提のために建立した寺院で、祀られている桓武天皇の肖像画は比叡山より下賜されたものということです。元々は万延元年(1860)に、京都御所の建物を移築して御影殿にしたということですが、老朽化により昭和三十三年(1958)、現在の洋風建築に再建されました。
またここは、幕末に国学者・歴史家の飯田忠彦(1798〜1860)が「大日本野史」291巻を執筆した所でもありました。「野史」は、水戸光圀の「大日本史」や頼山陽の「日本外史」で描かれなかった江戸時代も含む(室町時代中期から幕末までの)歴史書です。飯田忠彦は、日米修好通商条約の締結に反対する意見書を提出したことから、安政の大獄に連座して捕えられますが、釈放されて出家し、この浄蓮華院の一室で執筆に励みました。しかし間もなく、桜田門外の変に関与したという疑いを受けて自殺しました。
先程書いたように、浄蓮華院は、桓武天皇の菩提を弔うために建てられた寺院なのですが、実はこのお寺の背後の山は、「谷口古墳」という6世紀後半の古墳で、江戸時代までは桓武天皇の御陵として祀られていたのでした。
京都の多くの天皇陵は、主に南北朝以降の戦乱の中で所在地が不明となっていきます。江戸時代後期になると尊皇思想の高まりによって、各天皇陵の所在調査が行われるようになり、この谷口古墳が桓武天皇陵と特定されたのでした。しかしその後も諸説があって、結局、明治時代に現在の桓武天皇柏原陵(伏見区桃山町永井久太郎)に改められました。しかし現在の桓武天皇柏原陵自体も信憑性に欠けると考えられています。
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