京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

清水寺・三十三間堂・東福寺他

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前回の「仲恭天皇九条陵」のすぐ下の広場には、幕末の鳥羽伏見の戦いで戦死・病死した長州藩(周防・長門 山口県)出身の兵士48名の墓が立ち並んでいます。
鎌倉初期の仲恭天皇とは時代もまったく異なる兵士の墓ですが、天皇陵を背に2列に整然と並んだ墓を見ていると、まるでこの天皇のために戦った兵士達のように思えてくるから不思議です。



さて、慶応三年(1867)十月、将軍徳川慶喜の大政奉還後も、薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らはあくまで武力による倒幕を計り、十二月の王政復古の大号令を発令、幕府の事実上の廃絶が決定されます。その後も薩摩藩の挑発行動が続いたことから、大阪城にいた徳川慶喜はついに幕府の強硬派の意見に従って薩摩を討つため上洛を決意します。明治元年(1868)正月元日、幕府軍は鳥羽街道と伏見街道に分けて大阪から京都に進軍を開始します。正月三日の夕方に下鳥羽付近で幕府軍と竹田・城南宮周辺に布陣した官軍が遭遇し戦闘が開始、続けて伏見でも戦端が開かれました。
この時、長州藩は東福寺を本陣として南の伏見街道を約2100人で防御していました。三日から五日にかけて続いた激戦の結果、幕府軍は退却しました。この戦闘で戦死、病死者した石川厚狭介(あさのすけ)以下48名の遺体は、本陣のあった東福寺の山上のこの地に葬られました。その後、明治三十三年(1900)の三十三回忌の際に、現在の墓が整備されたということです。静かな墓地には、長州兵戦没者の功を記した石碑「祟忠之碑」や巨大な一基の大石灯籠が立っています。(写真)


最後に、「仲恭天皇九条陵」と「鳥羽伏見戦防長殉難者之墓」の辺りからは、京都の町並みが見渡せて、中々良い感じです。東福寺の東にあるこの陵墓周辺は既に新興住宅地化しているのですが、天皇陵のあるこの高台に登ってみるとそんなことは忘れさせてくれる静寂があって印象的な場所になっています。

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