京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

銀閣寺・哲学の道・南禅寺他

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毎年春秋に(財)京都古文化保存協会の主催により行われる「京都非公開文化財特別拝観」が、いよいよこの秋も始まりました。(11月1日〜11日・・一部公開日の短い場所もありますので要確認。16ヶ所の文化財公開、拝観料一ヶ所800円)
今回初公開される幾つかの文化財も含め、最っとも注目される存在としてポスターに採り上げられているのが、1200年ぶりに公開されるという尊勝院に祀られている米地蔵尊(よねじぞうそん)です。仏像ファンは必見かもしれません。(当然ながら内陣撮影不可)



さて、東山区粟田口三条坊町、青蓮院の北東の山復にある小さなお堂が尊勝院です。(三条神宮道の交差点から南東に向かって、青蓮院と粟田神社の間の小道を進むと料理旅館・粟田山荘がありますが、そこからさらに急坂を数分程度登れば到着します。)
元三大師(良源)を本尊とすることから「元三大師堂」とも呼ばれ、また別に青面金剛(しょうめんこんごう)を祀り、「京都三庚申(尊勝院、八坂金剛寺、山之内庚申堂)」の一つに数えられた庚申信仰の霊場でもあります。


尊勝院は、平安時代の保延年間(1135〜40)に陽範阿闍梨が、元三大師(がんざんだいし 慈恵大師 良源)を本尊として、比叡山の横川に尊勝坊を開創したことに始まる天台宗寺院です。「尊勝」の号は、陽範阿闍梨が鳥羽法皇の勅命を受け、横川般若谷の総本尊として祀っていた本尊元三大師像(現・尊勝院本尊)を前にして修法祈念したところ、霊験を得ることが出来たために法皇からその恩賞として賜ったと伝わります。

その後、正和年間(1312〜17)にこの洛東の粟田口に本尊を移し、青蓮院(尚、青蓮院も、平安時代末期に比叡山よりこの地に移っています。)の三条白川坊の後背地、裏築地の辺りに本堂が建立されました。これにより、青蓮院に対し裏築地御殿と呼ばれ、また、准門跡(脇門跡)寺院の般若院(般若三昧院)を歴代の尊勝院の住職が管理継承してきたために、裏築地門跡とも称しました。
尊勝院は創建以来、歴代天皇の勅願所として崇敬を受け、また青蓮院の宮の院家の筆頭として、代々の青蓮院門室の執事を勤めていました。また祇園社(現・八坂神社)、愛宕社(愛宕神社)、江州(滋賀県)多賀大社等の別当職を兼務するなど非常に由緒ある寺院だったようです。
さらに、尊勝院の歴代住職は日野家の子息が出家して代々継承してきたことから、日野の法界寺(前に書いた「法界寺」の記事を参照ください)の別当職も兼務していました。特に多賀大社については、慶長十二年(1607)、当時の住職・慈性大僧正が徳川家康の命を受けて、多賀大社の別当職となって別当寺不動院を兼務し、多賀大社の復興造営を行いました。以来、明治まで別当職を兼務してきました。


さて、尊勝院は、応仁の乱により荒廃しますが、文禄年間(1592〜95)に豊臣秀吉によって本堂が再建されたと伝えられます。江戸時代には、元三大師を本尊として祀る本堂が南面して建っていたことから、「南面大師堂」あるいは「元三大師堂」とも呼ばれていたようです。また、天明の大火(1788)によって皇居が類焼した際は、後桜町上皇が青蓮院を仮御所としたために、青蓮院の宮尊真親王が尊勝院に入って門室代ともなっています。
このように明治維新までは、三条白河橋東南一帯に境内が広がり、本堂、地蔵堂、庚申堂、弁天堂、多賀社、梅宮社等が建ち並んだ大きな寺院でしたが、明治の廃仏毀釈の影響もあって諸堂は統廃合されて縮小、米地蔵菩薩、庚申等の諸尊も本堂に一緒に祀られることになりました。大正四年(1915)に二条白河の旧地から、青蓮院の境内地の現在の京都市内を一望する粟田山へ移転した際に、本堂のみが移され、その後、庫裏、寺務所が建築され現在に至っています。戦前までは庚申の縁日には夜店が出て賑わい、「粟田の庚申堂」と呼ばれて親しまれていたようです。
尚、尊勝院は、上記のように、青蓮院の院家筆頭として代々の青蓮院門室の執事を勤め、また大正四年に青蓮院境内地へ移築したように青蓮院との関係が極めて深いために、平成十六年(2004)から住職は青蓮院門主が兼務しています。



現在の本堂(京都市指定文化財)は、文禄年間(1592〜95)に、豊臣秀吉が朝鮮への出兵と桃山城の安寧を祈願するために再建したとも伝えられます。桁行三間、梁行四間とそれ程大きいものでは無いのですが、正面一間通りを外陣、奥寄りの方三間を内陣とし、内陣には中央に四天柱を立て、背面に仏壇を間口に合わせる長さに設けて、中央に本尊元三大師像を祀る厨子を安置しています。正確な造営年代は不明ですが、内陣の四天柱内の細部様式から桃山時代まで遡るものと考えられています。その後、幾度かの修理によって一部は大きく改造されていますが、内陣は、平安時代以来の常行三昧堂の形式で一間四面堂の構成で建てられています(より古い室町時代の建造という説もあるということです。)

内陣は、金色の四天柱はじめ彫刻と極彩色が施されて厳かな雰囲気があり、中央奥の本尊を取囲むように、左に大きな千手観音坐像、本尊周辺に愛染明王、如意輪観音、不動明王、走り大黒天等が安置されています。本尊の左にある厨子は非公開ですが、中には庚申像(大青面金剛尊)が祀られ、その前には、「不見、不聞、不言(みざる、きかざる、いわざる)」の三猿像等が並んでいます。

今回の特別拝観の本尊・元三大師像は、元三大師(良源)の自作等身大の木像と伝えられ、元々比叡山の横川般若谷の総本尊として祀られていました。上記したように、たいへん霊験あらたかだったことから、鳥羽法皇は寺号として「尊勝」の号を授けています。今回は厨子を開けて厳かな尊像を拝見することができます。

また、もう一つの特別拝観の目玉「米地蔵尊(よねじぞうそん)」ですが、元々、勅願所の金蔵寺の本尊として祀られていたもので、慈覚大師の御作とも、慈覚大師が唐より将来せられた尊像とも伝えられています。どことなく法隆寺の百済観音を思い浮かべさせるお顔と、美しい彩色の残った衣文が印象的な平安朝初期の作らしい立像です。1200年ぶりの公開ということですが中々味わい深い仏様だと感じました。
伝記によると、昔、この粟田の里に貧しい女がいて、この仏様を長らく崇敬していましたが、ついにその霊験により貧苦を逃れる事が出来たということです。その際、この尊像が米袋を持ち来て彼女に与えたということから、世の人は米地蔵(よねじぞう)と呼んだと記されています。
江戸時代の霊元天皇は、この米地蔵尊を特に深く信仰したといわれ、享保十二年(1727)に白銀千両を寄付しています。また米地蔵を拝むとお米に不自由しないとして、一般庶民もこの地蔵菩薩に親しんで信仰してきました。こうして江戸時代には京洛四十八願所地蔵尊の中の第二十四番の霊場に数えられてきました。



尊勝院は、今では小さなお寺ですが、秋の特別公開は初めてということもあり、多くの観光客が来られていました。(小さなお堂の内陣は、本来一人静かに拝見したいような雰囲気ですが、そういうことは不可能でしょう。)諸仏が並んだ本堂内陣は印象的で、特に米地蔵尊は一見に値します。

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