京都を感じる日々★古今往来Part1・・・京都非観光名所案内

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

これまで、天神信仰の発祥の地・文子天満宮(あやこてんまんぐう 下京区間ノ町通花屋町下る天神町)をはじめ、幾つかの天満宮をブログに採り上げてきましたが、今回も上京区の天神信仰に関する史跡です。


現在京都市内には、主祭神として菅原道真を祀る天満宮社は10数社あるようです。北野天満宮、安楽寺天満宮、菅原院天満宮、霊光殿天満宮、水火天満宮、(以上、上京区)、文子天満宮、綱敷行衛天満宮、火除天満宮、菅大臣天満宮、匂天神、(以上、下京区)、吉祥院天満宮(以上、南区)、錦天満宮(以上、中京区)等になります。その他に神社内に末社として10数社祀られていて、これらの天満宮社は、入れ替わりはありますが、近世(江戸時代)には「洛陽天満宮二十五社」と呼ばれていたようです。

中でも京都市上京区にある北野天満宮は全国の天神信仰の中心地として非常に有名ですが、かつてその神域(今も天神通と呼ばれる通りの周辺地域です)には、七つの「保」と呼ばれる地域があり、「一之保」から「七之保」まで7つの天満宮が鎮座していました。この各「保」には、北野神人という神事に奉仕する人々が居住し、御供のための神饌を調理していました。

上京区天神通上ノ下立売上る北町にある安楽寺天満宮は、この「一之保」にあたります。
元々、安楽寺天満宮という名称は、九州の大宰府天満宮の旧称でもあります。延喜三年(903)、菅原道真が左遷された大宰府で死去した際に、遺言で「私の亡骸は牛の車に乗せて、人に引かせずに、牛が自分で行くところで止めよ。」といったとされ、遺言どおり、牛が止まったところに道真を葬って建てられたのが安楽寺の創建という伝説も伝えられ、延喜十九年(919)、醍醐天皇の勅命により、安楽寺の境内に太宰府天満宮が造営されました。そして、明治までは神仏習合の神宮寺として安楽寺天満宮、天満宮安楽寺と呼ばれていましたが、廃仏毀釈によって安楽寺は廃寺となり、天満宮だけが残ったのでした。

さて、伝承によると、京都の安楽寺天満宮も、道真の死後に従者が大宰府から帰京し、延喜五年(905)に右京一条二坊一保八町のこの地に道真の霊を祀って安楽寺天満宮と称したと伝えられ、北野や大宰府とほぼ同じ時期に創建された天満宮の一つだったようです。明治六年(1873)に、北野天満宮内に統合する形で遷座して宝物や社殿を移しますが、その後、近年再び旧跡地に再建されたのが現在の安楽寺天満宮社です。
横に広がった奥行の浅い境内には、安楽寺旧跡や一の保天満宮旧蹟を示す石標があり、末社の熊鷹稲荷社と金咲稲荷社が並んでいます。また境内にあるクスノキは高さ10・5m、幹周3・23mあり、上京区の誇りの木に指定されています。




さて、安楽寺天満宮のすぐ南、上京区天神通上ノ下立売上る北町にあるのが、文子天満宮(あやこてんまんぐう)御旅所です。文子天満宮旧跡の石標が残っているように、こちらは北野天満宮境内に鎮座する文子天満宮の旧社地になります。

北野天満宮の前身となった文子天満宮(下京区間ノ町通花屋町下る天神町)については、前に書きましたので省略しますが、菅原道真の乳母(或いは若い女性とも)多治比文子を祀る天満宮になります。
先程も書きましたが、この天神通付近は北野天満宮に仕える北野神人と呼ばれた人々が多く住んでいたところで、代々の神人がこの地に文子の霊を祀ってきたようです。明治六年(1873)、北野天満宮境内に遷宮した後は、文子天満宮御旅所として現在に至ります。

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事