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西陣の数多くの小さな寺院からまた一つ、慈眼寺(じげんじ)を採り上げました。(上京区と京都市観光情報HPを参考に書いてみます。)
慈眼寺の墓地には、江戸末期の画家・山本梅逸(やまもとばいいつ)、江戸中期の京都町奉行の与力で「翁草」を著した神沢杜口(かんざわとこう)の墓があり、また信長の家臣で大名として知られる佐々成政とその妻・慈光院の夫婦墓が近年確認されています。
上京区出水通七本松東入七番町にある慈眼寺(じげんじ)は、山号を福聚山(ふくじゅざん)という曹洞宗寺院です。天正十六年(1588)、関白鷹司信房(たかつかさのぶふさ 1565〜1657)の北の方・輝子(嶽星院(がくせいいん)?〜1630)が、豊臣秀吉に自刃させられた父の熊本城主・佐々陸奥守成政(さつさむつのかみなりまさ)の菩提を弔うために建立したと伝えられます。
開山は、織田信秀(信長の父)の伯父に当たる曹洞宗の高僧・大雲永瑞(だいうんえいずい)禅師ということですが、慈眼寺が創建された時には大雲永瑞は既に故人であることから、その霊を以って開山に擬したと考えられているということです・・変った開山ではあります。
元々は西陣石屋図子の地に建てられましたが、その後、寺町丸太町に移され、次いで寛文三年(1663)現在の地に再建されたということです。昭和十二年(1937)に再建された本堂は、書院造りの禅寺として代表的建築物ということで、本尊聖観音座像を祀ります。その他、寺宝として山本梅逸筆「名花十友図」と「雲龍」図、孫億筆「牡丹小禽図」(京都国立博物館寄託)、載文進筆「双鹿図」、曽我蛇足筆「山水図」等の絵画や、鷹司家愛用の煙草盆等を所蔵しているということです。
境内墓地には、江戸時代末期の南画家、山本梅逸(やまもとばいいつ 1783〜1856)の墓があります。(写真)山門横にも、近年に慈眼寺が梅逸の墓所であることを示す石標が立てられています。
山本梅逸は、尾張(名古屋)の出身で、若年より絵師を志し、やがて同門の中林竹桐らと京都で南画を学びました。その後、尾張藩の絵師として活躍し、名古屋における京風南画の第一人者となりました。写実的でありながら装飾性にも優れた花鳥山水図を残しています。また煎茶を好み、名古屋に京風文化を伝えたことでも知られます。
また、神沢杜口の墓もあります(今回写真はありません)
神沢杜口(かんざわとこう 1710−1795)は京都町奉行の与力でしたが、勤務の間に見聞した事柄や、鎌倉〜江戸時代の伝説や奇聞・異聞を抜書きして、全200巻の「翁草(おきなぐさ)」を著しました。「翁草」は現在でも江戸時代を知る為の貴重な史料になっています。
最後に、佐々成政夫妻の墓についてです。
佐々成政(1536〜1588)は、織田信長に仕えて、その親衛隊・黒毋衣組(くろほろぐみ)の筆頭に選ばれる程の武勇の士でした。その後は主に柴田勝家の与力大名として戦功をたて、越中(富山県)を領しました。本能寺の変後は、勝家に組して羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立する道を選びますが、成政が越後の上杉景勝の抑えの為に越中を動けない間に秀吉が勝家を破ったため、成政も降伏せざるを得ませんでした。その後、徳川家康と織田信雄が秀吉と対立すると、成政は再び秀吉に対し挙兵し、秀吉方の前田利家の末森城を攻めますが、その間に信雄、家康が秀吉と講和を結んでしまいます。成政は、家康を再び奮起させようと数人の従者と共に雪深い立山を越えますが、これが有名な「さらさら越え」です。
しかし、成政の期待虚しく家康は動かず、成政は再び雪深い越中に戻るしかありませんでした。そして結局、秀吉の大軍の前に降伏せざるを得ませんでした。秀吉は成政の武勇を認めていたため、天正十五年(1587)の九州征伐後に肥後一国を与えますが、成政は検地をめぐって肥後に国人一揆が発生した責任を問われて、翌天正十六年(1588)に摂津尼崎の法園寺に幽閉され切腹しました。
成政の墓は尼崎の法園寺他にあるようですが、慈眼寺の墓地にある五輪塔もその一つに数えられることになりました・・・これまで成政の正室・慈光院の墓と伝えられていましたが、近年(大河ドラマ「利家とまつ」放映の頃)、その横の磨耗した文字を拓本し読み解くと成政の名が刻まれていることが判明し、佐々成政と慈光院の夫婦墓であることが確認されました。夫婦墓を示す新しい石標が傍に立てられています。
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