京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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上京区七本松通仁和寺街道上る一番町にある立本寺(りゅうほんじ)は、日蓮宗京都八本山の一つです。(前に島左近の墓を中心に沿革を書いていますので、ご参照ください。)

今回は、秋の恒例になりました「立本寺の文化財・名勝庭園を訪ねて」という特別公開(11月22日〜26日まで)の機会に再び訪問して来ました。拝観時に詳しいパンフレットをもらいましたので、建造物と庭園について書いてみます。


尚、立本寺の創建当時の歴史については前に書いていますので、今回は割愛します。

立本寺は、文禄年中(1592〜96)に豊臣秀吉の都市改造計画により、京極今出川東北に移転し、その後三度の火災に遭い、さらに宝永五年(1708)の大火により本堂以下の多数の堂宇を焼失します。そして現在の地に移転し、正徳三年(1713)以降、現在に至るまで境内の整備が進められてきたということです。

現在の立本寺の境内は、北から庫裏と書院、客殿、そして境内のほぼ中央に本堂が南面して建っています。本堂の南西に祖師堂、東南に刹堂(鬼子母神堂)が対面し、最も東南に表門があり、鐘楼がその傍に建っています(鐘楼の周りは児童公園(立本寺公園)になっています。)江戸時代中期に再建された諸堂(本堂・刹堂・客殿・鐘楼・山門が京都市指定有形文化財になっています。)がよく残り、近世の日蓮宗本山の寺観を今に伝えているといわれています。また境内の東に塔頭の正行院と教法院、西に光源院と大輪院が並んでいます。

本堂は宝永五年(1708)の大火により現在地に移った後もしばらくは再建されず、元文四年(1739)にようやく工事が始まり、棟札によると寛保三年(1743)の上棟のようです。(実際には延享二年(1745)か延享三年(1746)に竣工したと考えられています。)建物は、桁行七間、梁行七間で周囲に落縁を設け、また正面と背面に向拝三間を付け入母屋造、本瓦葺の屋根を載せています。また内陣には四天柱を立てて須弥段を置き、両端の脇陣を間仕切りで小部屋としています。全体として近世の日蓮宗七間堂の典型的な建物ということです。

本尊の十界大曼荼羅をはじめ、中央須弥檀に釈迦如来像と多宝如来像、その周りには普賢菩薩、弥勒菩薩、四天王像等が祀られています。さらに正面に、日蓮像(冑の御影)が安置されています。
「冑の御影」についてです・・戦国時代の梟雄として知られる松永久秀には佐々木廣次という家臣がいました。廣次は日蓮宗の熱心な門徒で、戦場に出向く前に信仰するこの日蓮上人像に自身の兜を被せて地中に埋め、無事の帰還を祈ってもし無事に戻れれば寺を建立することを誓いました。その後、廣次無事に帰還出来たことから、この日蓮像を祀る祖師堂を寄進したと伝えられています。その後、この像は祖師堂に祀られていましたが、祖師堂の老朽化により本堂に移されたものです。
その他、本堂奥には日朗・日蓮・大覚妙実上人が祀られ、須弥檀背面には「十六羅漢図(重要文化財)」が描かれています。この羅漢図は、江戸時代中期の画家・渡辺始興が、延享三年(1746)六十四歳の時に須弥檀裏壁面に描いたもので、山中の五人の羅漢とその従者、総勢二十一人を書き分けていて、拝観の見所のひとつです。


刹堂は、日蓮宗の守護神・十羅刹女と鬼子母神を本尊とし、鬼子母神堂とも呼ばれています。
宝永の大火(1708)で焼失し、現在地に移転後間もなく正徳五年(1715)から着工し、享保四年( 文化四年 1807)に完成します。しかし再び天明三年(1783)に焼失し、文化八年(1811)に再建されたのが現在の建物です。大きさは桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺です。尚、祀られている安産・子育て祈願で有名な子安鬼子母神(ご開帳は毎月8日)は「北野の鬼子母神さま」と親しまれています。
また、刹堂の左には大黒天と宝吉祥天子(たからきっしょうてんじ 鬼子母神の子)とも呼ばれる月の神・月天子(がってんじ)像が祀られ、刹堂の右には、立本寺第20世・日審上人の像が祀られています・・「にっしんさま」と呼ばれるこの上人には、母親が身ごもったまま亡くなって幽霊となった母親が飴を買ってきて育てられたという伝説があります。今では安産守護の霊鷲院日審上人として遠く九州長崎でも祀られ、書き判が壺に似ていることから「壺日審さま」と呼ばれています。(六道珍皇寺で知られるこの幽霊子育て飴伝説にちなんだ「ゆうれい飴」は立本寺にもあるそうです。)


客殿は、棟札から享保十三年(1728)の上棟と判明しています。その後文久二年(1862)に仏間天井等を新調しています。六部屋に分かれた六間取方丈形式の建物で、背面に仏間を張り出し、東面北寄りに玄関と小玄関を附属しています。仏間を張り出す形式は一八世紀前期に現れることから、この客殿はその早い例ということです。

鐘楼は、古記録によれば、寛文年中(1661〜73)の造営で、宝永の大火(1708)でも焼失を逃れたと伝えられ、江戸中期に旧地で建築されたものを移築したものと考えられています。
また、表門は寛延二年(1749)に普請願所が出されましたが取り止めとなり、安永四年(1775)に規模を大きくして最後願所を出しています。現在の門はこの時のの門と考えられ、文化七年(1810)に完成したようです。大型の本覚的な高麗門です。
その他、境内には、指定文化財にはなっていませんが、祖師堂、石塔堂、妙見堂、書院、庫裏、経蔵が建ち並んでいます。祖師堂は先程書いたように、元々日蓮像(冑の御影)が安置されていましたが、現在は本堂に移されています。

また寺宝も多く、日像上人が由比ガ浜で修行中に感得した波振りの題目と呼ばれる筆法で書いた「十界曼荼羅(日像上人筆)」、日蓮上人が五十五歳の時、身延山で書いたという「曼荼羅(日蓮上人筆)」、日蓮上人が五十四歳の時、身延山で書いたという「撰時妙断簡(日蓮上人筆)」その他多数の貴重な文化財を所蔵しています(今回その一部が公開されました。)その他、客殿には「紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図(重要文化財)」のレプリカや、「寒山拾得図(伝・雪舟)」、作者不明の幽霊図、佐々木廣次の兜等が展示されています。



次回は庭園を採り上げます。

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