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伏見区深草藪之内町、伏見稲荷大社の外拝殿南にある小さな神社が東丸神社(あずままろじんじゃ)です。伏見稲荷と境内が隣接していますが別の神社です。
東丸神社は、明治十六年(1883)に、江戸中期の国学者で伏見稲荷大社の社家に生まれた荷田春満(かだのあずままろ 荷田東丸1669〜1736)が正四位の追贈を賜ったことを記念に、伏見稲荷大社の宮司らが寄付を募って創建した神社で、もちろん祭神は荷田東丸命(かだのあずままろのみこと)です。
荷田春満(東丸、東麿)は、寛文九年(1669)に、この伏見稲荷神社の社家で御殿預りを務める羽倉主膳信詮の次男として生れました。本名は羽倉信盛といい、幼少より歌道や書道に秀で、神職を継がずその後国史や古典を研究します。元禄十年(1697)から妙法院宮の御学問所に歌道の師として仕えましたが、当時は幕府が朱子学を政治理念としていたために、書を学ぶ者が極端に漢風(中国風)に走ることをみて、古学の廃絶を憂えて古学復興を志します。
その後、荷田春満(東丸)は、江戸に下向して独学で古学を研究し、また門人らに講義を行ってその名声は高まります。その名声を伝え聞いた将軍徳川吉宗は、享保七年(1722)に幕府の蔵書閲覧を頼んでその間違い等を訂正させ、その後も建議並び全ての書籍の推薦検閲の特権を与えています。
この間の逸話として、赤穂浪士と関わりがあります。荷田春満(東丸)は江戸在住時代に多数の門人に古典古学を教えていましたが、吉良上野介もまた教えを受けた一人でした。しかし上野介の振舞いぶりを見聞するに及んで、教えることを止めたということです。たまたま元禄十年(1697)に以前から親交があった大石良雄(内蔵助)の訪問を受け、その後、堀部弥兵衛・安兵衛、大高源吾とも交わり、吉良邸の見取り図を作って大高源吾に与え、また十二月十四日に吉良邸で茶会があることを探って赤穂浪士を援助したということです・・・赤穂浪士伝説の一つといえるでしょう。
その後、荷田春満(東丸)は、享保八年(1723)に京都へ戻り、さらに日夜研究を進め著述を著し、賀茂真淵等多くの門人に講義を行いました。そして東山の地に古学普及のための倭学校(国学校)を創建しようと享保十三年(1728)に、学校創設の必要を説いた「請創造倭学校啓文」を著しますが、享保十五年(1730)に病気にかかり、元文元年(1736)七月二日、68歳で亡くなり稲荷山に葬られました。
春満(東丸)は臨終に際し、その多くの著述の中で、研究途中のものは後世に残すと却って悪影響を及ぼすとして手元にあった書物を焼却させましたが、現在でも神道・日本史・律令・格式・歌道等に関する遺著が多数残されています。そして弟子だった賀茂真淵、その後に続く本居宣長、平田篤胤と並んで「国学の四大人(しうし)」といわれています。
さて、東丸神社は、明治十六年(1883)二月、荷田春満(東丸)が正四位の追贈を賜ったことを記念に、伏見稲荷大社宮司・近藤芳介、同主典・桑田孝恒等が中心となり、五月に政府に神社創建を申請して寄付を募り、荷田春満の旧邸の地の隣りに社を創建し、同二十三年(1890)五月に遷霊の義を行いました。その後、同三十六年(1903)十二月に府社に昇格、昭和十一年(1936)に現本殿に改造されました。荷田春満にあやかろうと学問向上や受験合格を願う多くの方がお参りに訪れています。
また、神社の東にある春満の旧邸は、春満の死後に火災に遭ってその敷地の一部に東丸神社が創建された後も、春満の時代の書院・神事舍・門が現存していて、江戸期の貴重な遺構として国の史跡に指定されています。(以前、文化財特別拝観で公開されています。)
(尚、京都では「荷田春満旧宅」のような国史跡の住宅としては、「頼山陽書斎(山紫水明処)」、「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」、「岩倉具視幽棲旧宅」があります。)
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