京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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宝塔寺

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伏見区深草宝塔寺山町にある宝塔寺(寶塔寺 ほうとうじ)は、深草山(しんそうざん)と号する日蓮宗寺院です。境内の広さは約1万坪あり、石畳の続く参道両脇には塔頭寺院が並んでいます。観光寺院ではありませんが伏見区では最も良く知られた寺院の一つでしょう。


寺伝によれば、宝塔寺の前身は、平安時代の嘉祥年間(848〜51)に関白・藤原基経が発願した極楽寺という真言宗寺院ということです。
極楽寺は昌泰二年(899)に子の藤原時平の時代に完成しますが、藤原氏の菩提寺らしく広大な境内に堂塔伽藍が立ち並んだ大寺院だったようです。(現在の法塔寺から瑞光寺(元政庵・・前にブログに採り上げています)の周辺地域はこの極楽寺の境内に含まれ、今も周辺には極楽寺町という地名が残っています。)
尚、当時有名な大寺院だった極楽寺は「源氏物語」にも登場するようです・・・「藤裏葉(ふじのうらば)」の帳では、頭中将が極楽寺で母・大宮の一周忌を盛大に行っています。そして、その法要の後、桜の花が散り乱れる極楽寺の境内で、光源氏の息子・夕霧は、頭中将の娘・雲居雁(くもいのかり)との結婚が許されることになります。その後、平安時代末期には極楽寺は徐々に衰退していったようです。



さて、当初は真言宗だった極楽寺は、その後日蓮宗に改宗します。
これは京都の多くの日蓮宗寺院に共通することですが、宗祖・日蓮聖人より「帝都弘通(ていとぐづう 京都での布教活動)」という遺命を受けた日像上人の影響でした。
日像上人は六老僧(日蓮上人の六大弟子)の日朗上人の弟子でしたが、日蓮聖人は、死の床で13歳の日像に京都での布教活動を託しました。当時の日蓮宗はまだ関東を拠点に信徒数百人程度の地方集団に過ぎず、教団が全国的に発展する為には京の都での布教活動が絶対条件でもありました・・しかし、歴史ある有力な他宗大寺院が勢力を持つ京都での布教活動には多くの困難が待ち受けていました。・・・こうして、日像上人は25歳で京都での布教活動を決意し永仁二年(1294)に上洛します。京都では予想されたとおり、延暦寺等の他宗派からの迫害を受け三度の追放を受けるなど苦難が続きましたが、確実に信者を増やしていきました・・・極楽寺の当時の住職・良桂(りょうけい)上人も、日像上人との宗論を行って感服して帰依、開山として日像を迎え、徳冶二年(1307)頃に極楽寺を日蓮宗に改めました。(延慶三年(1310)とも)
こうして極楽寺は京都での日蓮宗の初期の拠点の一つとなりました。やがて、日像上人は、元亨元年(1321)に後醍醐天皇より寺領を賜って、京都での日蓮宗最初の寺院として妙顕寺を創建し、建武元年(1334)に後醍醐天皇より綸旨を賜わって勅願寺となりました。その後、日蓮宗は京都に多くの寺院を創建し一大勢力となっていきます・・。
日像上人は康永元年(1342)に妙顕寺で亡くなりますが、この極楽寺で荼毘に付され、遺言によりこの地に祀られることになります。その後、極楽寺は寺名を一時「鶴林寺」とも号しますが、応仁の乱で荒廃し、天正十八年(1590)に日銀上人(妙顕寺十二世・日尭上人の弟子)によって再興されます。
この再興の際に、寺名を現在の「寶塔寺(宝塔寺)」に改称したということです。「寶塔寺(宝塔寺)」という寺名の由来は、日像上人没後に、上人が京都に通じる七つの街道の入り口に建てた法華題目の石塔婆の一つが当寺の日像廟所に奉られたため、或いは日蓮・日朗・日像三代の上人の遺骨を納めた塔があることから名付けられたともいわれています。




さて、宝塔寺には幾つかの貴重な建造物があり、本堂、総門、多宝塔が重要文化財に指定されています。まず、入り口に当たる重要文化財の総門(四脚門)は貴重な室町時代中期の建造物です。
参道を真っ直ぐに進むと朱塗りの仁王門がありますが、現在の門は、宝永八年(1711)に第十八世・日実上人が松平紀伊守信庸の援助によって再興したもので、右側の密迹金剛像は仏師康揩の作、左の那羅延金剛は康圃の作で寛文十年(1670)三月に完成されたと記録されます。また、山門中央には日蓮の御紋「井げたに橘」を描いた赤い大提灯が吊り下げられ、平成十二年(2000)に丹塗りの牡丹の花が描かれた天井画が復原されています。
仁王門を潜ると、金網で囲まれた放生池の向こうに本堂があり、左手(北)に庫裏と書院、鐘楼、霊宝堂、納骨堂等が並んでいます。また右手(南)に多宝塔、その奥が墓地になります。


境内の中心にある本堂(重文)は、寄進された方広寺大仏殿の余材を使って慶長十三年(1608)に建立されたと伝えられ、入母屋造で七間四方の入母屋造で日蓮宗本堂としては京都最古ということです。堂内には本尊の十界曼荼羅、釈迦如来立像、その左右に木像の日蓮上人、日像上人像が祀っています。尚、平成14年度に、本堂の解体修理が竣工されました。
本堂南側にある多宝塔(重文)は、一層目は行基葺き、二層目は本瓦葺きという変わった形式で、室町時代の永享十年(1438)以前に建立された京都市内に現存する最古の多宝塔ということで、応仁の乱の兵火を逃れた貴重な建物です。また付近には京都最初の日蓮宗寺院「大本山妙顕寺歴代廟所」があります。また境内墓地には、江戸初期の儒学者三宅寄斉、江戸末期の科学者山本亡羊があります。また肺病治療の名医と呼ばれ肺病平癒の信仰を集める宗有とその妻妙正の墓もあり「夫婦墓」と呼ばれています。




さて、宝塔寺の背後は「七面山(しちめんざん しちめんやま)」と呼ばれる標高100m程の小山になっています。山梨県の日蓮宗総本山・身延山久遠寺の西にある七面山に倣って、七面大明神を祀る「七面宮(七面堂)」を祀ったことから名付けられたと思われます。
本堂からこの山側(東)に少し登ると、極楽寺開基・関白藤原基経を祀る「昭宣堂(昭和十六年(1941)年建立)」や三十番神堂、千仏堂等があります。さらに山を登ると、日像上人廟があり、傍には13歳の日像上人の銅像「経一丸さま」等があります。

また、宝塔寺境内の左側(北)からも緩やかな石段が七面山の山上に向かって続いていて、2つの鳥居を潜ると宝塔寺の鏡守社「七面宮(七面堂)」に到達します。
七面宮は、寛文六年(1666)にこの地に勧請された七面大明神(七面天女)を祀っています。七面大明神とは、釈尊の化身として法華信仰を守護する為に、日蓮宗の聖地・身延山の鬼門を封じて山を守るべく七面山の頂上に姿を著した吉祥天のことで、岩に座り右手に鍵、左手に宝珠を持つ姿で表されます。

宝塔寺の境内に掲示されている七面大名神縁起の解説文では、瑞光寺(元政庵)の元政上人の記す所として、以下の七面大明神の伝説が説明されています・・・
健治年間(1275〜77)のこと、日蓮聖人がいつものように身延山で法華経を説いていたところ、参詣者の中に年齢二十歳頃の優雅な女人がいるので、弟子で大檀越の波木井実長らはこの美女は一体何者だろうと、訝しく怪しんでいました。
日蓮聖人は実長ら不審を見抜いて、その女人に向って「そなたの本当の姿を見せてやりなさい。」と言うと、女人は「承知しました。一滴の水さえありますれば・・」と答えます。聖人が傍の花瓶の水を与えると、女人は忽ち姿を変えて、一丈(約3m)余の竜蛇の姿となって花瓶にまとわりつき、舌を吐き天を仰ぐ実に恐ろしい姿に一同は恐れおののきました。
竜蛇は再びもとの美女の姿に戻り、日蓮聖人に向かって「あなたは釈尊の御本懐を受けて、地涌上行菩薩(妙法蓮華経では大地から現れる幾多の菩薩=地涌菩薩の筆頭を上行菩薩という)の最誕としてこの末法の世に身命を賭けて法を広めておられます。私も釈尊の仰せに従って総鎮守として法華経守護のためにここに現れました。ですから七難あっても即座に七福に転じ、法華経を信仰する人々の願いを必ず円満吉祥とならしめましょう。」と誓って、七面山の方角に飛び去りました。波木井実長は、この時の感激を忘れない為に早速画工に命じてその姿を写させたということです。

宝塔寺の七面宮に祀られている七面大明神(七面天女)像は、大仏師青木居士が彫刻して、大きな像は身延山七面山に奉納し、最初に刻んだ小像は自身の家に祀っていたところ、霊験あらたかなので、家を継いだ東庵余元澄という人物が、宝塔寺の十一世・日性上人の時代の寛文六年(1666)五月に瑞光寺(元政庵)元政上人と協力して奉納したものということです。また七面宮の傍には妙見堂なども祀られています。尚、この七面山からの眺めは素晴らしく、やや人気が無く注意を要しますが、宝塔寺〜七面山〜深草墓園を結ぶ道は散策路としても楽しめるようです。



最後に、宝塔寺には多くの塔頭があります・・大雲院・円妙院・直勝院・玉泉院・霊光寺・慈雲院・自得院が参道の両脇に立ち並んでいます。他に参道には日像上人の「荼毘(火葬)処」のを石標や、明治の廃仏毀釈で廃寺となった塔頭の了性院・本久院・深信院跡を示す石標が立っています。
尚、塔頭・霊光寺には、立本寺の二十世等を務めた日審上人の廟所や、江戸時代初期に活躍した将棋の初代名人・大橋宗桂と、同じく棋聖と呼ばれた幕末の天才将棋指し・天野宗歩の墓があります。二つの墓石は将棋の駒形をしていて、大橋宗桂の墓石の裏に桂馬、天野宗歩の墓石裏には歩兵の文字が刻まれています。(霊光寺の山門前には観光寺院で無いので・・と記されていて境内に入るにはお寺の許可が必要と思われます。)

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牡丹の花が描かれた天井画素敵ですね♪

2008/1/12(土) 午後 1:26 hi~me_blessing

天井の絵は、少し適当に撮ってしまって画像が悪いので恐縮です。天井画といえば、京都では平岡八幡宮の天井画が有名で、もっと素敵だと思いますよ。

2008/1/12(土) 午後 2:00 [ hir**i1600 ]


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