京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

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中京・下京

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革堂(行願寺)

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京都御苑の東南、中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町にある行願寺(ぎょうがんじ)は、山号を霊麀山(れいゆうざん)という天台宗寺院で、一般に「革堂(こうどう)」の名で親しまれています。
西国三十三所観音霊場の第十九番札所として訪れる人が跡を絶ちませんが、巡礼札所の中では唯一の尼寺でもあり、小さくて親しみやすいお寺だと感じます。


さて、革堂(行願寺)は、平安時代の寛弘元年〜二年(1004〜5)行円(ぎょうえん)上人が一条天皇の勅願により一条小川(上京区)に一宇を創建したことに始まると伝わり、一条天皇の縁や一条通にあったこととから元々「一条北辺堂」とも呼ばれていました。
寺伝によれば、還俗前猟師だった行円上人は、ある時一頭の雌鹿を射止めますが、その腹の中で子鹿が生きていたことに哀れみを感じ、殺生を悔いて仏門に入りました。そして諸国での修業の後に行願寺を建てて、自ら千手観音像を刻んで祀ったということです。上人は常に殺してしまった鹿の皮をまとって鹿を哀れんでいたことから、人々から「皮聖(かわひじり)」、「皮上人」、「皮仙」等と呼ばれ、いつしか行願寺は、行円上人の鹿皮の衣から「一条革堂」と呼ばれるようになったということです。(そして、その後上京から移転するなどして「一条」の名は外れ「革堂」という名前で親しまれることになったようです。)
その後、革堂(行願寺)は人々の信仰を集め、室町時代には町衆の集会所として役割も持った町堂として上京の中心地として栄えましたが、応仁の乱の兵火をはじめ、度々の火災によって寺地を転々とします。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の京都の都市整理によって寺町荒神口(上京区)の南へ寺地を移した後、江戸時代の宝永五年(1708)の大火後に現在地に移転しました。



現在の本堂は、文化十二年(1815)に再建されたもので、それ程広くない境内の割りに堂々とした建物に感じます。この重厚な雰囲気は、外陣を吹き放しとして入母屋造の屋根に千鳥破風を付け、更にその前方に軒唐破風の向拝を続けて複雑な屋根構造となっている点や、彫刻装飾が多用されているために由来するようです。この本堂は近世の天台宗本堂として貴重な遺構として京都市指定有形文化財に指定されています。
堂内には行円上人の作と伝えられている秘仏の本尊・千手観音像を安置しています。
「洛陽三十三所観音霊場」の第4番札所にもなっているこの観音像は、行円上人が像を刻ための用材を探していたところ、夢に一人の僧が現われ、加茂社(現・上賀茂、下鴨神社)の傍に霊木があると告げられたという伝説があり、行円上人はこの神木を譲り受けて一刀三礼して観音像を刻んだといわれています。(この秘仏は毎年1月17日〜18日に御開帳されています。)
また鐘楼も、本堂と同じ大工棟梁によって文化元年(1804)に造営されたもので、文化年間における行願寺再建の一連の遺構として貴重で、こちらも京都市指定有形文化財に指定されています。



境内には他に「都七福神巡り」の一つになっている「寿老人神堂」をはじめ、「愛染堂」、「鎮宅霊符神堂」、「加茂明神塔」等があります。「寿老人神堂」に祀られる寿老人像は、桃山時代の作といわれ豊臣秀吉が万人快楽のため行願寺に祀ったと伝えられています。
尚、「都七福神巡り」とは、日本最古の七福神まいりといわれていて、京都各地の以下の寺社を参拝するものです。
○恵美須神社・・・ゑびす神 
○松ヶ崎大黒天(妙円寺)・・・大黒天
○六波羅蜜寺・・・弁財天
○赤山禅院・・・福禄寿神
○萬福寺・・・布袋尊
○革堂・・・寿老人神
○東寺・・・毘沙門天

境内西北隅には、印象的な「加茂明神塔」があります。
高さ約3mの鎌倉時代の五輪石塔で、中に不動石仏を安置しています。これは行円上人に観音像を霊木を示した僧が加茂大明神の化身だったことから、この神への感謝のために祀ったと伝えられます。



最後に、宝物館には子供を背負った若い女性が浮かび出る「幽霊絵馬」が展示されています。

江戸時代の文化十三年(1816)頃のことです。革堂の近くの竹屋町柳馬場に一軒の質屋がありました。店主の八左衛門は「鬼左衛門」と渾名を付けられるほど強欲で、また熱心な法華信者でもありました。やがて子供が生まれたことから子守りを探しますが、日頃の評判の悪さから中々子近所では見つからず、人を介してようやく遠い近江(滋賀県)から「文(ふみ)」という名前の百姓娘を雇うことが出来ました。
お文は年十歳で、真面目によく子供の面倒をみる娘で、いつも近くの革堂境内で子守りしていました。その内に革堂から毎日聞こえてくる「花を見て 今は望みも革堂の 庭の千草も盛りなるらむ」という御詠歌を暗記して、家でもそれを子守唄代わりに子供をあやしていました。

ある日、これを耳にした法華信者の八左衛門は怒りを爆発させて、殴る蹴るの折檻をしてお文を殺してしまい、遺体を庭に埋めてしまいました。そして、お文の両親へは、娘は男と駆け落ちして家を出ていったので行方はわからないと伝えました。
近江から駆けつけてきた両親は、八左衛門の説明を不信に思って、革堂で観音様に娘の所在を知りたいと必死で祈りました。すると、その夜、亡霊となったお文が現れて、「私はご主人に殺されて、今は庭に埋められています、私が大切にしていた手鏡も一緒に埋めてください・・」と告げたのでした。
こうして両親の奉行所への訴えによって事件は発覚し、お文の遺体は無事両親に引き取られました。両親は観音様へのお礼に絵馬を描いて、お文愛用の手鏡を添えて奉納したと伝えられています。

微かに若い娘の姿が浮かび、その左側には手鏡がはめこんである「幽霊絵馬」は、毎年8月22〜23日の幽霊絵馬供養で公開されます。また8月22、23日には行円上人像、上人の鹿皮の衣等を所蔵する宝物館も公開されます。

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