京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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北区鷹峯藤林町にある金蓮寺(こんれんじ)は、山号を錦綾山(きんりょうざん)という時宗寺院です。広い境内の大部分は「錦綾(きんりょう)幼稚園」という新しい幼稚園になっていて、地元でも幼稚園の方が知られているのかもしれません。観光で訪れる方はまずいないと思いますが、古くは中京区四条にあって時宗道場として知られたお寺だったようです。


お寺についての話より、時宗開祖・一遍上人について少し書いてみます。
「一遍上人縁起絵」や「一遍聖絵」等の多くの説話や伝説に描かれているように、一遍の生涯は他の鎌倉新仏教の開祖達とは違って、自らの寺を持たず、ただ念仏を唱えて全国各地を行脚した行動者・実践者として貫かれたものでした。

時宗の開祖として知られる一遍上人(1239〜89 証誠大師)は、幼名を松寿丸といい、延応元年(1239)、伊予の豪族・河野通広(出家後は如仏)の子として生まれました。父の通広は、以前に京都で法然上人の弟子・証空上人に浄土宗を学んだ経験があることから、建長三年(1251)に十三歳の松寿丸を九州大宰府にいた旧知の聖達(しょうたつ)上人(証空上人の弟子)に委ねて浄土宗西山派の教義を学ばせました。一時、一遍は同じく証空上人の弟子だった肥前国清水寺の華台(けだい)上人に師事し智真の法名を与えられ、その後、再び聖達上人の下へ戻って修行しました。

しかし、弘長三年(1263)一遍二十五才の時、父の死によって故郷伊与国に帰ることとなり、領地を継承し還俗して武士に戻りました。妻子を持ち領地を管理する生活が続きますが、この間に一族の領地争いに巻き込まれる等の問題を経験し、やがて文永八年(1271)三十二歳で再び出家を決意し、翌年に信濃国の善光寺、伊予国窪寺に参詣し、さらに伊予国久万の岩屋に参詣しさらに修行を深めます。そして、文永十一年(1274)に、ついに一遍は妻(超一)・娘(超二)・下人(念仏房)の4人連れで諸国を行脚し念仏を広める旅に出ました。
まず難波の四天王寺、紀伊国・高野山と参詣します。ここで妻子と下人を伊予に帰らせ、独りで旅を続けます。翌健治元年(1275)は京都から伊予に戻って、九州を行脚し、最初の弟子となった他阿三年弥陀仏(他阿 遊行上人二世)とも出会います。翌健治二年(1276)は伊予から安芸の厳島に詣でて、翌三年は京都の因幡堂(平等寺)から信濃の、善光寺、さらに翌年以降は東北を目指します。さらに平泉や松島を経て伊豆、尾張から近江に入りました。この数年の間に弟子達が数十人従って遊行するようになっていました。


さて、弘安七年(1284)年閏四月、一遍は近江国関寺から京都の四条京極(四条大橋西付近)にあった釈迦堂(京極釈迦堂)に入って七日間間滞在して、賦算(南無阿弥陀仏の名号を書いた算(ふだ)を配ること)や踊り念仏を行っています。この頃には一遍の念仏布教の全国行脚は都でも良く知られるようになっていたため、四条通には一遍のお札(算)をもらおうと京都では貴族から庶民までが多数群がったと伝えられます(以下のようにこの釈迦堂の地に後に金蓮寺が建てられることになります。)この時の京都滞在では、因幡堂(平等寺)、後三条の悲田院、蓮光寺、雲居寺・六波羅蜜寺に巡礼し、さらに空也上人の遺跡・市屋道場(西本願寺付近)に参詣し、桂にあった道場で病のために休息しています。この時の一遍の京都滞在は四十八日に及びました。

翌弘安八年(1285)には丹後(京都府)から山陰地方を行脚し、翌九年(1286)には四天王寺、住吉神社、当麻寺、岩清水八幡宮等を参詣。さらに翌十年(1287)播磨書写山円教寺から備後、安岐の厳島へ。正応元年(1288)は、伊予に渡って、菅生、岩屋、大三島等を参詣。翌二年(1289)には讃岐から阿波へ。病により心身の衰弱する中で、明石へ船で渡り、兵庫観音堂で、自らの著作を焼却させ五十一歳で亡くなりました。

一遍の死後、弟子達は一旦解散しますが、その後再結集し、やがて時宗(尚、「時宗」という用語は室町以降になって現れます。)という新仏教として成長していきます。日本で最初の民衆の宗教ともいえる時宗を生み出した一遍上人ですが、多数の熱狂的な信者を得ることが出来たのは、極めてカリスマ性のある人物像に加え、全国を十六年もの間布教して回るという強靭的な行動力、そして踊り念仏という庶民も理解できるシンプルな布教方法によることは間違いないでしょう。特に、一遍が自らが新しい宗派を起こすという意図など持たずに、力尽きて倒れるまでひたすら歩き続けた姿は悲壮感もあり、不思議な魅力も感じます。



さて、金蓮寺についてです。
一遍上人死後のことです。一遍の京都での最初の布教拠点となった四条京極(四条大橋西付近)にあった釈迦堂(京極釈迦堂)の辺り(中京区新京極通四条上る西側染殿院前。)には平安時代に創建された祇陀林寺という寺院がありました。(染殿院、釈迦堂等が建ち並んでいたようですが、これらの寺院の関係は不祥です。)祇陀林寺には延慶二年(1309)に時宗の僧・浄阿弥陀仏真観上人が東国から入洛して住持となります。(真観上人は一遍上人の最初の弟子となった他阿上人(多阿弥陀仏 遊行上人二世)の弟子で、京都に布教のために入洛しました。)

応長元年(1311)、浄阿真観上人が、後伏見上皇の女御・広義門院藤原寧子の安産を祈願して霊験があったことから、後伏見上皇から祇陀林寺を賜って寺名を「錦綾山太平興国金蓮寺」と改めました・・これが金蓮寺のはじまりと伝えられます。金蓮寺は真観上人が開いた時宗四条派の本山となり「四条道場」と称されました。室町時代には広大な土地の寄進を受けて、釈迦堂や染殿地蔵を塔頭として包含した大寺となり、踊念仏から転じてしばしば連歌や曲舞等の芸能事が催されたという記録もあります。その後、江戸時代には金蓮寺は衰退し縮小します。当時は境内に芝居小屋等が建ち並んで庶民の遊楽地となっていました。天明八年(1788)の大火で焼失し、後に再興され、大正十五年(1926)に現在の北区鷹峯藤林町に移転しました。
尚、旧地の中京区新京極通四条上る西側染殿院の前には、一遍上人ゆかりの四条道場跡を示す石標が建てられています。絹本着色浄阿真観像(京都府登録文化財)等を所蔵しています。

「金閣寺・大徳寺・鷹峯他」書庫の記事一覧

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初めまして、マグと申します。大学の授業で金蓮寺について調べることになったのですが、良い参考文献などはありますか?
また、この記事の参考文献ももしあったら教えてほしいです。

2011/10/16(日) 午後 2:29 K・マグダム

金蓮寺の古資料上での記載に関しては、東京大学史料編纂所のホームページにある、大日本史料総合データベース、古記録フルテキストデータベース等が便利です。寺名で検索すると歴史上の金蓮寺と権力者の関係等が見えてきます。江戸時代の都名所図会にも僅かな記載があり、国際日本文化センターのホームページから検索可能です。後は時宗関係の研究書でしょうか。

2011/10/20(木) 午前 10:08 [ hir**i1600 ]

ありがとうございます^^
僕も金蓮寺に行ってきましたが、お寺なのか家なのか分からない状態でした。

2011/10/21(金) 午前 7:05 K・マグダム

かつては、「四条道場」として古記録にも出てくるお寺ですが、今はまったくその面影はありませんね。かなり詳しい京都名所案内系のガイドブックにも出て来ないというか・・採り上げているのはこのブログくらいかもしれません。

2011/10/27(木) 午前 8:27 [ hir**i1600 ]


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