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上京区の紫明通の南、堀川通の東西は、多くの寺院が集まっていて中々面白い地域です。
妙蓮寺、本法寺、妙顕寺、妙覚寺といった大寺院や春秋に特別公開される宝鏡寺(人形寺)等が建ち並び、また茶道家元の裏千家今日庵と表千家不審庵があることでも知られます。
大小ある様々な寺院の中でも、今回の大応寺(大應寺)はそれ程目立たない寺院ですが、「悲田院」跡という由緒ある地に建つ寺院のようです。
上京区堀川上御霊前上る扇町にある大応寺(大應寺)は、山号を金剛山という臨済宗相国寺派の寺院です。天神公園という児童公園内に山門があり、公園に入らなければお寺の存在に気づかないかもしれません。
元々この地は、九世紀初期に、熱心に仏教を信仰したことでも知られる檀林皇后(786〜850 嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子 たちばなのかちこ)が、「悲田院(ひでんいん)」を建てた地と伝わります。
悲田院というのは、仏教思想に基づいて、貧病人や孤児等の救済施設として作られた施設のことで、日本では聖徳太子が四天王寺に建てた「悲田院」が最も古く、奈良時代の養老七年(723)に光明皇后によって作られたものが有名です。その後、平安時代になると、京都に東西二カ所(九条三坊)に設けられたようで、一つは鴨川の三条河原付近にあり、鎌倉時代から室町時代初期に、現在地(上天神町・扇町・天神北町・瑞光院前町付近)に移転しました。この地の悲田院はその後、寺院として整備されていきます。
そして、室町時代の文明二年(1470)、第百二代後花園天皇が死去した際は、それまで東山区の泉涌寺で葬礼が行われていましたが、応仁の乱で寺が破壊されていたために、その遺骸はこの悲田院で火葬にされたと記録されています。しかし、その後も続く戦乱により、この悲田院も荒廃してしまいました。(尚、悲田院は、江戸時代の正保ニ年(1645)に現在の泉涌寺の山内に移されて今日に至っています。)
さて、その後、天正十四年(1586)、虚應(こおう)和尚が由緒ある悲田院の跡地を惜しんで建てたのが大応寺になります。大応寺は度々火災に遭って再建を繰り返し、現在の建物は文化五年(1808)以後の再建ということです。江戸時代には堀川通から小川通までの扇町一帯を敷地としていたようですが、現在では寺域は縮小して、昭和の地域整理によりかつての寺域に扇町公園が造られています。
本堂内には、本尊の釈迦如来像、脇侍の迦葉・阿難像を安置し、また後花園天皇の念持仏と伝えられる観世音菩薩像を祀っています。また、境内には大応寺の鎮守社の織部稲荷社があります。
この稲荷社は、織部流茶道の祖として有名な古田織部正が伏見稲荷大社から勧請したものと伝えられ、開運福徳の神、織物技術上達の神として西陣織物業者から信仰され、2、8、11月には織部稲荷奉賛会によって祭祀が行なわれているということです。
最後に、本堂の背後の堀川通沿いには、宮内庁が管理する後花園天皇の火葬塚があります。
後花園天皇がこの地にあった悲田院で火葬にされたという記録に基づいて明治以降に整備されたものですが、京都にある中世の多くの天皇陵や火葬塚の中では、最も信憑性のあるものといわれています。(尚、後花園天皇の御陵は、右京区京北京北井戸字丸山にある常照皇寺(ブログに採り上げています)内にある後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)に葬られ、遺骨の一部は、京都市上京区の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ ブログに採り上げています)に分骨されています。)
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