京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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遍照寺

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右京区にある広沢池の南にある遍照寺(へんじょうじ)は、現在は小さな寺院ですが、かつては広沢池畔に多くの堂宇が並ぶ広大な寺院でした。おそらくその当時は、少し西に位置する大覚寺と大沢池のように池の水面に堂宇が映って素晴らしい光景だったのでしょう。
残念ながら現在は狭い境内になってしまいましたが、創建時から伝わる平安時代の重文の仏像を所蔵していて、これらは常時拝観可能です。(拝観料500円)


さて、右京区嵯峨広沢西裏町にある遍照寺(へんじょうじ)は、山号を広沢山(ひろさわさん 廣澤山)という真言宗御室派の準別格本山で、「広沢不動尊(ひろさわふどうそん)」の通称でも知られています。
遍照寺の創建は、平安時代の永祚元年(989)平安時代中期の寛平法皇(宇多天皇)の孫にあたる寛朝(かんじょう、かんちょう)僧正が、広沢池畔にあった山荘を改めて寺院にしたものです。


寛朝僧正(広沢御房)は、敦実親王の二男で宇多天皇の孫にあたり、幼少時より仏門に入って仏教修行して真言密教の秘法を極め、真言宗で始めて大僧正に昇補された人物です。
弘法大師空海と同じく不動明王を信仰して念持仏として朝夕に祈念して、度々祈祷によって、(弘法大師に匹敵するような)不思議な法力を表したという伝承があります・・・
天慶二年(939)には関東で平将門が反乱を起こしたために、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝僧正が、関東下総国(現在の千葉県北部及び周辺)で祈祷を行うと、その霊験により反乱は治まりました。そしてこの地に東国鎮護の為に建立したのが成田山不動尊新勝寺ということです。また、天元四年(981)に円融天皇が病気となった際は、寛朝僧正が宮中で病気平癒の祈祷を修すると、眼の前に不動明王が出現し、円融天皇の病気はたちどころに癒えたと伝わります。これにより円融天皇は僧正に篤く帰依し、後に自身もその元で出家したということです。また、一条天皇の永延元年(987)五月、旱魃が起こり、天皇の勅命により六大寺の僧を奈良の東大寺大仏殿に集めて降雨を祈ると、翌日に大仏殿に雷鳴が轟いて大雨が降ったとも伝えられています。


さて、広沢池付近は、「嵯峨富士」ともいわれる端麗な遍照寺山が池に映る風光明媚な土地でもあり、また修法にも適した土地だったため、寛朝僧正は若い頃からこの地を好んで、池の北の遍照寺山山麓に山荘を営んで住房としていました。そして、永祚元年(989)十月に、円融天皇の勅願によりこの地に諸堂を建立整備して、山荘を改めて遍照寺を創建しました。(尚、遍照寺は池の北西及び西側一帯に造られました。そして、この創建の際に池の南側を堰き止めて造られたのが広沢池ともいわれています。)

また、正暦三年(992)五月には山麓に多宝塔が建立され盛大な供養が行われています。
当時は広沢池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があり、池畔には多宝塔、釣殿等、数々の堂宇が並ぶ広大な寺院だったと伝わります。寛朝僧正はこの遍照寺で密法の法流を広め、真言宗二大流派の一つ「真言宗広沢流」の流祖となりました。この広沢流は名門貴族出身者が多く、遍照寺はその根本道場として有名な存在でした。(これに対し、醍醐寺を中心とする小野流では庶民出身の僧侶が多かったということです。)


このように栄えた遍照寺でしたが、長徳四年(998)に寛朝僧正が亡くなると次第に衰退しました。その後、鎌倉時代に後宇多天皇により復興されますが、それも応仁の乱によって完全に荒廃してしまいました。(尚、これら創建時の遺構はほとんど残っていないと考えられてきましたが、近年池の西北岸で基檀状の遺構が残存していることが明らかとなりました。一間四面の御堂跡とみられ、平成四年に京都市史跡に指定されました。)


しかし、奇跡的に難を逃れた赤不動明王像と十一面観音像、また寛朝僧正の画像等の寺宝は、江戸時代の寛永十年(1633)に仁和寺門跡の内意によって広沢池南方にあった「池の浦村」の上乗院跡(現在地)の草堂に移され、遍照寺の名跡は何とか後世に伝えられることになりました。そして、現在地に文政十三年(1830)に、舜乗律師により堂宇が建立されようやく復興が始まり、昭和になって収蔵庫、護摩堂を建立し仏像寺宝を安置します。そして平成九年(1997)に客殿、新庫裡を建立して現在の姿となりました。



本堂に祀られる赤不動明王像と十一面観音像は、どちらも平安時代の遍照寺創建当時の作で仏師定朝の父、康尚の作と伝えられ、国指定の重要文化財に指定されています。赤不動明王像は、寛朝僧正の念持仏だったもので、弘法大師空海御作とされる成田不動尊と一木二体の霊像と伝えられる一木造りの像で、「広沢の赤不動」と地元の人に親しまれています。また、端麗な一木造の十一面観音像は、元々広沢池にあった旧観音島に祀られていたものといわれます。
他に釈迦如来像、地蔵菩薩半迦像(鎌倉時代)、聖観音立像(平安時代末期)、不動明王像(鎌倉時代)、大黒天像等を安置し、また狩野深雪筆の「竹虎図」等を所蔵しています。
(尚、最後の写真は遍照寺の裏門横に近年祀られた富岡大明神社です。)

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初めまして!!
学校の夏休みの宿題で調べなきゃいけないので、参考にさせていただきまぁす^^

2008/7/18(金) 午後 6:29 [ なーさん ]

ご訪問ありがとうございます。

2008/7/18(金) 午後 7:08 [ hir**i1600 ]


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