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右京区太秦三尾町にある文徳天皇田邑陵(もんとくてんのう たむらのみささぎ)は、第五十五代文徳天皇の陵墓です。
前に、玄武神社の祭神・惟喬親王について書いた時に、親王の父文徳天皇についても少し書きました。文徳天皇は、平安時代に藤原氏によって擁立された多くの天皇の最初期の例という以外に、歴史的にそれ程重要な天皇では無いと思われますが、太秦にあるその天皇陵は見晴らしが良くて、横には文徳池と呼ばれる溜池もあり中々良い雰囲気の天皇陵だと感じます・・・ただし、多くの天皇陵と同じく実際の文徳天皇の埋葬地では無いようですが。
長くなりますが、前に文徳天皇の父の仁明天皇陵について書いた文章を再掲させていただきます・・・
さて、文徳天皇は仁明天皇の第1皇子ですが、父帝の治世に「承和の変」という藤原氏が台頭する切欠となった事件があり、天皇家皇位(王統)の相続形態に変化をもたらした天皇として知られます。
平安京の創始者・桓武天皇の子孫たち、いわゆる桓武朝は、親から子へという直系相続ではなく、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立が行われたことが知られています。「藤原種継暗殺事件」や「平城太上天皇の変(薬子の変)」等の大きな事件が起こると、結果として一時的に直系相続を生みますが、皇位迭立は存続して、特に嵯峨・淳和天皇の時代の皇位迭立は兄弟間で相手の子供に皇位を譲るという複雑なものになりました。
○桓武天皇(弟・早良親王を皇太子にするも、「藤原種継暗殺事件」に連座して廃位。代わって子の安殿 親王(平城天皇)を立太子)
○平城天皇(弟の嵯峨天皇に譲位)
○嵯峨天皇(甥の高岳親王(平城天皇の子)を皇太子にするも、「平城太上天皇の変(薬子の変)」に連 座し廃位。代わって弟・大伴親王(淳和天皇)を立太子)
○淳和天皇(甥・正良親王(嵯峨天皇の子・仁明天皇)を立太子)
○仁明天皇(従兄弟・恒貞親王(淳和天皇の子)を立太子するも、「承和の変」に連座し廃位。代わって 自身の子・道康親王(文徳天皇)を立太子)
さて、兄の平城天皇から皇位を譲られた嵯峨天皇は、その後、兄の上皇が再び政治的野心を抱いために、これを軍事的に圧倒し兄を出家させます。(平城太上天皇の変(薬子の変))その後、兄弟の対立が王統を危うくしたことの反省か、また自身の子を皇太子にすることを憚ったためか、嵯峨帝は、弟の大伴親王(淳和天皇)を皇太子にします。即位した淳和天皇は、今度は甥にあたる嵯峨の子・正良親王(仁明天皇)を立太子し、即位した仁明天皇は、今度は従兄弟にあたる淳和の子・恒貞親王を立太子します。このように、嵯峨と淳和の兄弟帝は、子の代まで交代に皇位を譲り合ったのでした。
しかし、主に上皇として絶大な権力を握っていた嵯峨帝の意思によって行われたこの相続形態は、嵯峨の死によって脆くも崩れます。
承和七年(840)に淳和上皇が死去、承和九年(842)に、嵯峨上皇が重病に陥ると、有力貴族の後ろ盾のない皇太子・恒貞親王(淳和天皇の子)の立場を危惧した皇太子に仕える伴健岑(ばんのこわみね)、橘逸勢(たちばなのおとせ)らが恒貞親王を東国へ移すことを画策します。しかしこの計画は露見し、嵯峨帝が亡くなると陰謀関係者は直ちに逮捕されました。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人として流刑に処し、恒貞親王も皇太子を廃されました。
この「承和の変」の結果、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進し、仁明の子・(藤原良房の孫)道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となります。こうして、兄弟間(また兄弟の子へ)で皇位を譲り合うという王統の迭立は一旦終わって、仁明・文徳・清和・陽成と続いく直系相続が行われます。
「承和の変」は、自身の子道康親王(後の文徳天皇)を皇太子にしたいと内心望んでいた仁明天皇と、道康親王(文徳天皇)に自身の娘明子を入内させて外戚となっていた藤原良房の政治的野心が合致して見事に成功した政変だったともいわれますが、嘉祥三年(850)の父帝の死後、即位した文徳天皇は、当然、自身の即位に力を尽くした良房(太政大臣に昇格)の存在を無視できず、藤原氏の勢力は一段と強まりました。
文徳天皇は、後継者として幼少より聡明だった惟喬親王(母は紀氏の出身)を皇太子にしたいと望んでいましたが、藤原良房の娘明子との間に生まれたばかりの、生後八ケ月の第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子にせざるを得ませんでした。1歳にもならない乳児を皇太子としたことは前代未聞のことで、藤原良房の強い圧力があったことは言うまでもありません。
その後も、文徳天皇は、何とか惟喬親王にも皇位を継承させようと考え、藤原良房との間には暗闘があったと伝えられますが、結局、天安二年(858)に三十一歳の若さで死去してしまいます。
こうして、文徳天皇が死去すると、藤原良房は直ちに僅か九才の惟仁親王(清和天皇)を即位させ、完全に外戚として政治の実権を握りました。その後、院政期までの歴代天皇は、僅かな例を除いて外戚の藤原氏の意向によって選ばれることになります。
その後・・
○清和天皇(9歳で即位。藤原良房が実権を握る。子の貞明親王(陽成天皇)に譲位)
○陽成天皇(9歳で即位。藤原基経により退位させられる。)
陽成天皇を退位に追い込んだ藤原基経は、後継者を探して、再び3代溯った仁明天皇の第3皇子を担ぎ出します。この光孝天皇は、「全てを基経に任せる」と語り、基経の権力は絶大なものとなりました。
さて、文徳天皇陵についてです。
文徳天皇が天安二年(858)に亡くなると、山城国・葛野郡田邑郷にある真原岡という丘陵地に埋葬されたと伝わりますが、その陵墓はその後行方不明となりました。
(天皇陵は古代には大規模な古墳として造られましたが、平安時代になると徐々に小規模となり、やがて仏教思想の影響により火葬が取り入れられ寺院内の御堂に納骨されるようになっていきます。こうして小規模になった京都の大部分の天皇陵は、その後の戦乱の中で管理していた寺院が廃絶したり、都市の発展により山陵の周辺地域が切り開かれていくうちに行方不明となってしまいます。)
江戸時代末期、尊王思想の高まりによって歴代の天皇陵を調査する動きが起こり、文徳天皇の陵墓についても幾つかの候補地が考えられましたが、最も有力候補だったのは、それまで地元で文徳天皇の陵墓として言い伝えられてきた「天皇の杜古墳(西京区御陵塚ノ越町。呼び名は文徳天皇陵と伝えられてきたことから名付けられています。 前にブログに採り上げました。)」でした。
しかし、幕末から明治の国学者で、天皇陵修復に努めた谷森善臣(たにもりよしおみ 1818〜1911)の推定によって現在地と定められ、明治になって円丘の陵墓として整備されました。しかし研究が進んだ現在では信憑性に欠けるものと考えられています。
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