京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

花園・等持院・御室・太秦・西院他

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右京区宇多野馬場町にある光孝天皇後田邑陵(こうこうてんのう のちのたむらのみささぎ)は、第五十八代光孝天皇の陵墓です。
光孝天皇は、前回に採り上げた第五十五代文徳天皇の弟で、その陵墓もそれ程離れていません。文徳天皇陵が丘陵に造られた雄大な天皇陵であるのに対し、こちらの方は住宅地に囲まれていて魅力の点では落ちる印象です・・しかし有名観光寺院の仁和寺の直ぐ南西に位置しているので、仁和寺を訪れたついでに訪問しやすい天皇陵ではあります。



光孝天皇(830〜87 在位884〜7年)は、人生も終わり頃になって偶然、皇位を継承することとなった天皇として知られます。

仁明天皇陵、文徳天皇陵を採り上げた時に詳しく書いたので、ここでは簡単に・・
少し遡りますが、承和九年(842)に絶大な権力を持っていた嵯峨上皇が死去すると、直ちに「承和の変」が起こりました。時の仁明天皇(嵯峨天皇の子)は、謀反人として伴健岑、橘逸勢らを流刑に処し、事件に関係したとして恒貞親王(淳和天皇の子・仁明天皇の従兄弟)も皇太子を廃されました。
この「承和の変」の結果、仁明天皇の外戚・藤原良房は大納言に昇進し、仁明の子・(藤原良房の孫)道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となります。
こうして仁明・文徳・清和・陽成と続く直系相続が行われ、政治の実権は完全に藤原北家の藤原良房、基経が握りました。特に第五十六代・清和天皇は祖父でもある良房によって、第五十七代・陽成天皇は叔父でもある基経によって共に僅か九才で天皇に擁立されるという完全な傀儡だったのでした。

しかし、その後、成長した陽成天皇は次第に摂政の基経と対立し、実権を握る基経によって十七才で退位させられました。陽成天皇は宮中で撲殺事件を起こすほど暴君だったために退位させられたとも伝えられて、後世、暴君を倒した基経は王朝を護った忠臣という評価まであったようですが、現在の研究では、思い通りにならない若年の天皇(実際は幼帝を操る皇太后高子(基経の同母妹ですが)の勢力)を追い落とした基経が、自身の行為を正当化するために陽成天皇暴君説を喧伝させたというのが真相に近いと考えられているようです。



こうして、陽成天皇を退位させた基経は貴族たちと会議を開いて、皇位継承者を探しました。
この時、嵯峨天皇の晩年の子で臣籍降下していた源融(源氏物語の光源氏のモデルともいわれます)は、自分も天皇家の出身だから・・と主張しますが、臣籍降下した者が天皇になるなど前例の無いことであると、基経に直ちに退けられたという話も伝わっています。
他に「承和の変」で皇太子を廃されて出家していた当時五十九歳の恒貞親王(淳和天皇の子)にも皇位を要請して拒絶されたともいわれますが、基経の意中では候補者は既に決っていたようです。
(会議の席で参議・藤原諸葛が剣の柄に手をかけ太政大臣(基経)に異論のあるものはこの場で切って捨てると恫喝したとも伝えられますが、そういう脅しが無かったとしても基経に逆らう者はいなかったでしょう。)

基経は、三代溯って仁明天皇の第三皇子で五十五歳の時康親王を担ぎ出します。
基経と時康親王とは母を通じて従兄弟という関係にあり、すでに老境にあった時康親王は、これまで日々の暮らしにも苦労する程だったとも伝えられ、それだけに倹約を旨とした穏やかな性格だったようです。
こうして即位した光孝天皇は、文事を好んで政治には関心が無く「全てを基経に任せる」と語りました。そして皇位に即けてくれた基経に感謝し、また憚って、即位以前の自分の皇子皇女をすべて臣籍に降下させることまでしました・・これは基経の血を引いていない皇子を皇太子にしないためだったいわれています。
このようにして始まった光孝天皇の治世は、基経が政治の全てを仕切っていたこともあってか大きな事件の無い平和な時代だったようです。しかし、仁和三年(887)、在位三年で天皇は新しい女御(藤原佳美子=恐らく基経の娘)との間に子が無いままに病に倒れ、臣籍降下していた源定省(定省親王、後の宇多天皇)を親王に復位させ皇太子にした後に死去しました。もちろん、定省親王を皇太子に推薦したのは基経で、定省親王が基経の異母妹・尚侍藤原淑子(基経の政治的な協力者でもあったようです)の猶子だったことが理由でした。こうして、基経はさらに次代でも権力を握る事になります・・・。



さて、政治は全て基経に任せて、自身は和歌をよくし文事を好んだ光孝天皇は、後世に一つの大きな遺産を残しました・・即ち、仁和寺の建立です。仁和寺は仁和二年(886)に光孝天皇が大内山の麓に「西山御願寺(にしやまごがんじ)」という一寺の建立を発願したことに始まります。
そして光孝天皇の死後、先帝の志を継いだ宇多天皇が仁和四年(888)に完成し、合わせて光孝天皇の一周忌供養が行われました。西山御願寺は光孝天皇の時代の「仁和」の年号を寺号として定められ、大内山仁和寺(おおうちやまにんなじ)と呼ばれるようになりました。


最後に、光孝天皇の陵墓についてです。元々陵墓は仁和寺の西に位置していましたが、多くの天皇陵と同じく、その後所在が不明となりました。平安時代には百余もの塔頭を持っていた仁和寺が、その後火災と戦乱で衰退したために、陵墓を護持していたその塔頭が失われたことが原因と思われます。
ようやく江戸時代末期に始まった天皇陵の捜査を経て、明治二十二年(1889)に全国の天皇陵を、とにかく急いで地定した際に、現在の場所に定められましたが、実際の埋葬地である可能性は低いと考えられています。

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