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伏見区は明治天皇や桓武天皇をはじめ多くの天皇陵があることでも知られる地域です。
その中で、市街地にあるので結構目立つのですが、聞いたことの無いような天皇名の御陵があります・・・伏見区丹後町にある伏見松林院陵(ふしみしょうりんいんのみささぎ)です。
案内板に「後伏見天皇 皇玄孫 尊称天皇 後崇光太上天皇」と記されているこの陵墓は、室町時代の皇族・伏見宮第三代・貞成親王(さだふさしんのう)の御陵になります。
貞成親王(1372〜1456)は、天皇に即位したわけではありませんが、親王の生存中の正長元年(1428)に自身の子が後花園天皇として即位したために、文安四年(1447)に太上天皇という尊号を贈られ後崇光院と呼ばれました。(貞成親王は恐れ多いとしてこの尊号を辞退したということですが、太上天皇の称号を奉られた記録から、明治時代の天皇や皇族陵墓の地定の際に、後崇光太上天皇として現在の陵墓が整備されました。)
話しは遡ります・・前にも伏見の史跡を採り上げる時に出てきましたが、平安時代後期、伏見の地には貴族の多くの別荘がありました。特に関白・藤原頼通の子の橘俊綱(たちばなのとしつな 橘俊遠の養子となります)が、延久年間(1069〜74)にこの地に豪華な伏見山荘(伏見殿)を築いて、公家達を招いて詩歌管弦にふけり、伏見長者と呼ばれる程に栄華を極めたとも伝わります。俊綱の死後、伏見山荘は豪華さで競い合っていた鳥羽離宮の主・白河上皇に献上され、後に白河上皇の甥で養子だった源有仁(みなもとのありひと 花園左大臣 公家風のお歯黒や化粧を始めた人物ともいわれます)に下賜されます。
その後さらに、有仁の養女となった鳥羽上皇皇女・頌子内親王を経て、後白河上皇へ継承されました。後白河上皇は伏見一帯に豪華な伏見殿(船津御所、伏見離宮)を建造しました。鎌倉中期に荒廃してしまった鳥羽離宮に対し、伏見殿は持明院系(後深草・伏見・後伏見・花園天皇)の皇室領として受け継がれ、南北朝時代には後伏見天皇の子・北朝の初代光厳天皇、二代光明天皇、三代崇光天皇へと受け継がれ、その後伏見宮家に譲られました。
この伏見殿は、上御殿が現在の御香宮(ごこうのみや)の東南、指月の森付近(桃山町泰長老 秀吉が伏見城の前に最初に築城し場所でもあります)にありました。また、下御殿は現在は干拓された旧巨椋池(おぐらいけ)に面する柿木浜(現柿木浜町)にあり、宇治川の船着場があることから「舟津御所」「舟戸御所」等ともよばれていたようです。
長くなりましたが、ようやく伏見宮家についてです・・伏見宮は崇光天皇の嫡男栄仁(よしひと)親王に始まります。
栄仁親王は、本来なら天皇の嫡男として皇位を継承することも考えられたわけですが、南北朝の動乱は南北朝の各天皇や皇子の運命を翻弄します・・・
観応三年(正平七年 1352)二月、南朝軍が京都へ侵攻し、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、当時皇太子だった直仁親王(花園天皇皇子、光厳・光明両上皇の従兄弟)が南朝の本拠・賀名生へ拉致されて幽閉される大事件が起こります。北朝政権では歴代上皇、現天皇及び皇太子が突然不在になるという非常事態に陥り、この危機の中で、足利幕府は、天皇家の最高権威者「治天の君」として、光厳・光明両上皇の母・広義門院(西園寺寧子)をピンチヒッターとして担ぎ出します。こうして事実上の天皇となった広義門院の令旨の力により、門院の孫・弥仁親王(崇光天皇の弟)が、天皇の正当な継承形態の譲位や三種の神器も無いという異例の形で後光厳天皇として即位しました。
さて、数年間の軟禁状態から開放されて、延文二年(正平十二年 1357)に光厳・光明両上皇、崇光天皇、皇太子の直仁親王は京都に戻りますが、既に後光厳天皇が即位していて、これにより遠縁の直仁親王(花園天皇皇子、光厳・光明両上皇の従兄弟)の天皇即位の芽は無くなりました。それではと、前天皇で後光厳天皇の兄・崇光上皇としては、自身の嫡男栄仁(よしひと)親王を皇太子にしたいと考えますが、弟の後光厳天皇は応安三年(建徳元年(1370))に自身の皇子・緒仁親王(後円融天皇)を皇太子にするべく将軍足利義満に計って皇位継承問題が起こります。
崇光上皇は、天皇の正当な継承形態の譲位や三種の神器も無いという異例の形で即位した弟・後光厳天皇はあくまで臨時の天皇で、皇位は正当な天皇である自分の直系に返還されるべきと主張しますが、結局、幕府の支持を受けたのは後光厳天皇で、その皇子の緒仁親王が皇太子即位しました。
こうして皇位継承から外れた崇光天皇の嫡男栄仁(よしひと)親王は、父の上皇が応永五年(1398)に亡くなると出家して、晩年は譲られた伏見殿で生涯を送り、応永二十三年(1416)に死去、さらに継承した治仁王も翌二十四年(1417)に急死して、その弟の貞成親王が第三代伏見宮として継承します。
貞成親王は、幼少時から今出川家で養育されたために和歌に堪能でしたが、応永十八年(1411)に四十歳でようやく父の栄仁親王の伏見殿に迎えられて元服するというかなり不遇の半生を過ごしました。そして、応永二十四年(1417)に、父や兄の死によって伏見宮家を相続しました。貞成親王は実質的に伏見宮の創始者といってもよい良い存在で、その伏見御料は、以後子孫に伝えられていくことになります。
さて、伏見宮家は、本来は北朝の正当な皇位継承権を持つために、天皇家からは皇位を窺う者として疑われていたようです。病弱で皇子に恵まれない第百一代・称光天皇が、応永三十二年(1425)に一時危篤状態となると、貞成親王は次期天皇候補として親王宣下を受けますが、このことが回復した称光天皇の怒りを買い、親王は出家して野心の無いことを示しています。
その後、正長元年(1428)に称光天皇が再び重態に陥ると、天皇家(北朝)断絶の危機を乗り切るために、六代将軍足利義教は貞成親王の子・彦仁王を次期天皇として支持し、称光天皇の父・後小松上皇に新帝としての指名を要請します。南朝の残存勢力(後南朝)が、称光天皇の死によって北朝は皇位継承権を失ったとして再び不穏な動きを見せていたという背景もあって、後小松上皇はやむなく彦仁王を養子とし、称光天皇が亡くなると、正長元年(1428)、第百二代・後花園天皇として即位させました。
しかし、南朝の残存勢力(後南朝)は北朝の傍流である伏見宮家から天皇を選出したことに反発し、北畠満雅が伊勢で挙兵するなどの事件が起こります。そして、即位した後花園天皇も、後南朝との戦いや将軍義教の暗殺事件、晩年には応仁の乱を経験するなど苦労の多い時代を生きることになります。
それはともかく、貞成親王は、自身の子が後花園天皇として即位したために、文安四年(1447)に太上天皇という尊号を贈られ後崇光院と呼ばれ、 康正二年(1456)に84歳という高齢で亡くなりました。そして、伏見宮家は貞成親王の次男・貞常親王(さだつねしんのう)が継承し、康正二年(1456)に兄の後花園天皇から、永世に「伏見殿御所(伏見殿)」と称することを勅許され、以降は伏見宮と名乗るようになりました。(尚、伏見殿は室町時代後期の戦乱の中で荒廃してしまいました。)
現在の後崇光太上天皇伏見松林院陵は、前述したように、かつての伏見殿の下御殿跡で、「舟津御所」、「舟戸御所」等とよばれていた地域にあります。すぐ西側には貞成親王に仕えていた女官が、親王の死後に尼僧となって御陵を守った庵を建てたことに始まるという松林院という小さな寺院があり、陵墓の名前はこの寺院に由来しているようです。
現在の皇室は、北朝系のこの後花園天皇(つまり伏見宮家の)の直系子孫に当たります。そういう点からも、明治初期の天皇陵整備計画の際に、伏見宮家の実質的な始祖ともいうべき貞成親王=後崇光太上天皇の陵墓は、他の天皇と同格に近い面積のある立派なものとして整備されたのかもしれません。
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