京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

西陣・北野天満宮他

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上京区智恵光院通出水下ル分銅町にある松林寺(しょうりんじ)は、通称「やす寺(やすでら)」と呼ばれる浄土宗鎮西派寺院(総本山はもちろん知恩院)です。一見して普通の小さなお寺ですが、境内に豊臣秀吉によって築かれた聚楽第(じゅらくだい じゅらくてい)の遺構が残ることから歴史に興味のある一部の方には知られている寺院です。


松林寺は、江戸時代初期の慶長十四年(1609 慶長十三年(1608)とも))、清印上人によって現在の二条河原町付近に創建され、元禄(1688〜1704)の初年に現在の地に移転しました。
通称名の「やす」は、安産の「安」を意味しています・・これは、開基の清印上人が重病の母親の回復を祈願すると、薬師如来が現われて婦人病や安産に効験あらたかな秘薬の処方を伝授されたという伝説に由来していて、このエピドードからか戦前には寺で薬が販売されていたということです。現在は二十年程前の火災で焼失した後に再建された新しい本堂が建っていて、古い山門とは少しミスマッチな印象もあります。


さて、松林寺は、山門前の道路(新出水通)に比べるとかなり低い位置に建っています。
山門から本堂裏にかけてなだらかな坂となっています。さらに境内南にある墓地にかけて一段と低くなっていて、最大で道路からは約3mは低いようです。これは、松林寺の境内全体が、秀吉が造営した聚楽第の遺構(外郭の東西方向の堀部分)にあたるためで、平成九年(1997)に発掘調査され、部分的な外堀の一郭であったと推定されています。

聚楽第について少しだけ書いてみます・・・天正十三年(1585)に関白に任じられた豊臣秀吉は、さっそく自身の邸宅でもあり政庁でもある壮大な建物の建造を計画します。天下人に相応しい天守閣を持つ豪華な城郭風の邸宅を、京都の中心部、平安京の大内裏跡でもある内野(うちの)に建造するというものでした。造営は翌十四年(1586)二月から始められ、同十五年(1587)九月に完成して、聚楽第と名付けられました。(尚、「聚楽」とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味。)そして、天正十六年(1588)五月には、後陽成天皇の行幸を聚楽第に迎え、諸大名に天皇と関白秀吉への忠誠を誓わせています。
このように豊臣政権の権威を象徴していた聚楽第ですが、同十九年(1591)に、秀吉は甥の秀次を関白に就任させ、聚楽第も秀次に譲られることになりました。一方、太閤となった秀吉自身は、隠居後の住居として伏見城の建設を始めます。このまま秀吉と秀次の二元政治が順調に機能していれば、聚楽第のその後も少しは違っていたのかもしれませんが、文禄四年(1595)に秀次は謀反の疑により高野山に追放、切腹させられました。そして、秀吉は聚楽第を全て破却させ、その遺構の一部は,当時造営中だった伏見城に移されました。


聚楽第は徹底的に破壊されて、堀は埋められ石垣は崩されて更地にされてしまったために、現在でも不明な点が多いようですが、外郭範囲としては、北は元誓願寺通(もとせいがんじどおり)、東は堀川通、南は押小路通(おしこうじどおり)、西は千本通に至る東西約600m、南北約700mという大きさで、周囲には幅30m以上にも及ぶ堀をめぐらしていました。また内郭には本丸を中心に、北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれていたと考えられています。
さらに堀の周辺には諸大名の武家屋敷が軒を並べていて、一部は現在の町名や通り名にそのなごりを留めています・・・山里町(やまざとちょう)、下山里町、如水町(にょすいちょう)、加賀屋町、浮田町(うきたちょう)、直家町(なおいえちょう)、田村備前町(たむらびぜんちょう)、福島町、主計町(かぞえちょう)、弾正町(だんじょうちょう)、日暮通(ひぐらしどおり),黒門通等があるようです。また聚楽第の遺構としては、大徳寺唐門や妙覚寺表門、西本願寺飛雲閣等があり、近年の発掘調査によって金箔瓦等が出土しています。



最後に、松林寺は熱心な幕末ファンにも注目されています。
新撰組と並んで幕末の京都で活躍した京都見廻組の与頭・佐々木只三郎が松林寺に寓居していたと伝えられるからです。佐々木只三郎は、慶応三年(1867)の近江屋での坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与していたとも言われていますが、佐々木はこの松林寺の宿で暗殺計画を部下達と計り、近江屋(中京区河原町通四条上ル)に向かったのかもしれません。

同じ京都の治安維持を担っても、農民や商人出身者を中心とした新撰組に比べて、京都見廻組の方は幕臣で構成された幕府の正規警備隊でした。また、担当範囲も新選組が祇園周辺の歓楽街を受け持っていたのに対し、見廻組は御所や二条城などの公的地域を警備していました。そのため、京都見廻組の屯所は、この松林寺からもそう遠くない二条城側にあったといわれていて、松林寺は佐々木只三郎にとっても宿として便利だったのかもしれません。
また、松林寺が佐々木を受け入れた背景として、松林寺が属する浄土宗大本山の黒谷の金戒光明寺(左京区黒谷町)に京都守護職の会津藩の屯所が置かれたことが関係していたといわれています。

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