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前回、上京区浄福寺東入る大黒町にある「岩神(岩神祠・岩上神社)」を採り上げましたが、今回はその関連史跡として、中京区岩上通六角下る岩上町にある中山神社を採り上げます。
中山神社は、「岩上町」という町名からもわかるように「石神(いわがみ)(岩上)神社」とも呼ばれていて、元々は境内に「岩神(岩神祠・岩上神社)」を祀っていた神社でした。
中山神社の祭神は、主神として審素戔鳴尊(すさのおのみこと)を、また朝夕に内裏の門を守護すると言う櫛石窓神(くしいわまどのかみ)と豊石窓神(とよいわまどのかみ)の二神を配祀しています。
神社の創建は、平安時代の初め延暦十三年(794)、桓武天皇の勅命により建立されたと伝えられ、嵯峨天皇の後院(ごいん 退位後の御所)冷泉院(れいぜいいん)の鎮守社だったと伝えられます。
冷泉院は、平安前期の弘仁年間(810〜24)、嵯峨天皇が平安宮の東隣に創建した離宮で、嵯峨天皇の譲位後は後院(上皇の御所)として使用されました。嵯峨上皇は承和元年(834)に大覚寺の元となった嵯峨院へと移りますが、その後も代々天皇の離宮・後院として利用されました。その後、四度の火災に遭って再建を繰り返しますが、天喜三年(1053)に破却されました。
尚、元々は「冷然院」でしたが、天暦三年(949)の火災後の再建の際、「然」が燃えるという意味に通じることから「泉」に改められました。(冷泉院は現在の二条城の東北一帯に位置し、二条城の北、中京区竹屋町通堀川西入に跡地を示す石標があります。)
天喜三年(1053)に破却された後の冷泉院跡地については不祥ですが、「岩神(岩神祠・岩上神社)」を採り上げた時に書いたように、鎮守社は、冷泉院の南、二条堀川付近(二条城の南 二条通猪熊)付近にあったようです。そして、慶長七年(1602)の徳川家康による二条城築城の際に、社殿は岩上通六角下る(現・中京区岩上町)へ移築したと伝えられます。
(年代や伝承に諸説ありますが、この時に、「岩神(岩神祠・岩上神社)」は大きすぎて引く事が出来ないために、旧地に残したとも伝わります。その後の「岩神(岩神祠・岩上神社)」については前回の記事をご覧ください・・とにかく岩神は二ヶ所に分れ現在まで祀られることになったようです。)
移転後、天明八年(1788)の大火により焼失し、現在の社殿はその後再建されたといわれています。また、現在の狭い社地には、本殿左には末社の清久稲荷神社があります。
最後に、現在地への移転後、近代になって「石神(いわがみ)(岩上)」神社が、「中山神社」とも呼ばれるようになったのは、この地が鎌倉時代の内大臣・中山忠親(なかやまただちか)の邸跡だったことに由来するようです。
中山家は、藤原北家の流れを汲む花山院家の庶流で、中山忠親(1131〜95)は、平安末期から鎌倉初期の公卿で中山内大臣(内府)と呼ばれていました。忠親が歴史的に注目されるのは、その日記「山槐記」が源平時代の重要資料になっているからで、平家物語や源平盛衰記などの軍記物語とは異なる記述があり、史実とフィクションの違いを窺わせます。
現在、神社の鳥居横には、中山内府邸の跡を示す石標があります。
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