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中京区河原町通二条下る一之船入町、角倉了以が開削した高瀬川の起点として知られる「史跡・高瀬川一之船入(いちのふないり)」のすぐ南にある廣誠院は、前を通る人も気づかないような静かに佇んでいる臨済宗寺院です。普段は非公開ですが、現在、京都市指定の名勝庭園と京都市指定有形文化財の建造物が特別公開されています。(公開日3月1〜5日、事前申し込み制で、既に締切っています。建物内部は撮影禁止、庭園のみ可)
さて、元々この辺りは幕末まで長州藩邸があった地でした。維新後、明治四年(1871)に藩邸跡には京都府の勧業場が設けられましたが、明治十四年(1881)に勧業場は民間に払い下げられ、広大な跡地には当時の有力な政財界人が別荘を構えることになります。これらの別荘地には鴨川から取水された園池が設けられたものも多く、その後、京都有数の別荘地となった南禅寺界隈に先駆ける地域だったようです。(南禅寺界隈には、明治二十三年(1890)の琵琶湖疎水の開通によって疎水の水を取り入れた広大な別荘庭園群が生まれました。)
今では、これら木屋町の別荘群は失われ、当時の面影は、廣誠院と、角倉了以邸宅跡に建つ「がんこ寿司」内の「二条苑高瀬川源流庭苑・・・山県有朋の別邸「第二無鄰庵」を経て、日本銀行総裁・川田小一郎別邸、阿部信行首相別邸を経て大岩邸となり、「がんこ寿司」へ)・・・に残るのみとなっています。
廣誠院は、元々、当時の実業家・伊集院兼常(いじゅういんかねつね 1836〜1909)の別荘として造られました。伊集院兼常は、薩摩藩武士の出身で、藩の営繕関係の仕事を担当し、明治維新後は海軍軍人等を経て実業家に転進、明治二十年には渋沢栄一らと日本土木会社(後の大成建設)を設立し、その社長となった人物です。兼常は東京から京都に移り住み、明治二十五年(1892)にこの地を入手し屋敷を構えました。現在の廣誠院の書院や茶室、広間はこの時代に造られたものです。
しかし、兼常は、すぐさま(明治二十七年頃 1894)、より広大な別荘=「対龍山荘(後に市田弥一郎所有。七代目小川治兵衛(植治)作の国の名勝庭園が有名。通常非公開)」を南禅寺付近に造営し、木屋町の屋敷は売却されることになりました。明治二十九年(1896)に近江出身の実業家で貴族院議員も勤めた下郷傳平が屋敷を購入、さらに、その後明治三十五年に実業家の廣瀬満正の手に渡ります。(この頃には洋館が建設されたようですが、現存しません。)その後、昭和七年(1932)に仏堂、庫裏、表門などが建設され、庵としての体裁が整えられ、昭和二十五年(1950)に宗教法人化し、同二十七年(1952)に臨済宗寺院「廣誠院」となりました。
さて、明治時代中期(明治二十五年〜二十九年)頃に伊集院兼常によって建てられた廣誠院の書院、茶室、広間等の建物は、明治期の優れた数寄屋造の貴重な邸宅として京都市指定有形文化財に指定されています。
表門を入ると、まず、昭和七年(1932)に建設された仏堂が左手、庫裏が右奥にありますが、これらは非公開部分です。仏堂の南側には次の間、書院が続き、次の間の東には茶室が設けられています。
また茶室の東、建物全体の北東にある八畳敷の広間も茶室として用いられる部屋で、水屋に接しています。
書院は、十三畳半で普通の畳より狭い台目(だいめ)畳三条敷の床と床脇棚を設けています。
書院の東から南にかけては、軒が3m以上の深い庇になっているのが特徴で、この軒を一本の丸太の桁が支えるという空間構成が面白いです。書院の北の次の間は、十畳の空間で部屋の西側に棚が設けられ、武家の蹴鞠風景の風俗画等が描かれています。この書院・次の間と庭園との間には高低差があり、高瀬川から取水した流れのある庭園を眼下に眺められ、また庭園に降りられるように大きな賀茂の真黒石(まぐろいし)の屈脱石が段々に置かれています。(残念ながら書院からの庭の眺めは撮影禁止。)
茶室は三畳中板入りで、高瀬川から水を引き込む庭園の流れの上に建っています。また、茶室としても用いられる八畳敷の広間は、正面に床と押入れが設けられ、床は袖壁で東端を隠し、西端の側壁は斜めに取り付けて間口を狭める構成になっています。
さて、庭園は、伊集院兼常の強い指示により造作されたものと考えられています。
兼常は建築だけでなく庭園にも造詣の深い人物でもあり、後に七代目小川治兵衛(植治)は、庭造りの技術を学ぶ上で、伊集院兼常から多くを学んだと述べているということです。庭園は書院や茶室、広間に南面していて、園池の水は高瀬川から取水され、再び元の川へ戻すという構成になっています。
広間北側にある取水口から取り込まれた水は、茶室の真下を潜って流れとなり、南北に細長い園池にそそがれます。池の中央にはたいへん細長い花崗岩の石橋が掛かり、その南には大きな石が配された池尻があり、ここから水が高瀬川に排水される仕組みになっています。敷地の東側全体は高瀬川に面しているのですが、僅かな木々で遮られているだけなのに、高瀬川向こうの雑踏を感じさせない静かな空間になっています。
また、書院の大きな庇を支える柱の礎石が池中に据えられる等の随所に軽やかな趣きが演出されていて、建物との調和を考えた工夫も多く見られます。池の周囲は幅の細い園路で回遊することが出来、周辺には様々な石燈篭や石幢が配置されています。特に、広間の軒先には、天正年間(1573〜92)に三条か五条大橋の橋脚の元にした手水鉢が添えられていて、この手水鉢は、七代目小川治兵衛(植治)が平安神宮の庭園で、飛び石に用いたのと同じ手法ということです。
その他、池上の約半分はイロハモミジで覆われていて、秋にはたいへん絵になる庭だろうと感じます。また広間の脇にはイチョウとナギが植えられていてアクセントにもなっています。
全体として、庭園と建物が見事に融和していて、近代的な数寄屋造り風の趣が感じられますが、庭園史的には、橋鋏石や立石等の主要な石が、近代庭園の大成者となった七代目小川治兵衛(植治)が用いたものとは石の種類が違うことから、近世から近代への途上に位置する庭園と考えられているということです。建物と水流が融和する近代黎明期に造られた庭園として貴重なものとして、京都市指定の名勝庭園に指定されています。
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伊集院兼常さんの事、
左京区の對龍山荘の記事を書いて、調べましたが、此処まで詳しい研究は無かったです。
古い記事にコメントして御免なさい。
良い話を有難う御座います。
2012/10/30(火) 午前 2:01
ご訪問ありがとうございます。現在はブログ更新はしていませんが、京都の史跡探訪の参考にしていただけたらと公開しています。よろしくお願いします。
2012/11/11(日) 午前 11:32 [ hir**i1600 ]
維新の光として3/30(土)から4/14(日)まで特別公開されます。
今回は、18:30から21:00までライトアップされますので楽しみにしています。昼の部は10:00から17:00までです。
2013/3/29(金) 午後 4:07
広誠院は非公開ですが、広誠院の造営者:伊集院兼常の隠れた素晴らしいアイディア・・・
或時期の或時間、池の漣が障子一杯に映る。
動画としてyoutubeにUPされています。
GoogleかYahooで
「広誠院光彩の美」で検索すると見ることが出来ます。・・時間は3分7秒です。
http://www.youtube.com/watch?v=-LvPr_Bl4tw
2013/12/10(火) 午後 10:06 [ mx2*60*88 ]