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京都市下京区は商業地ですが、ビルの谷間に非常に多くの神社がある地域です。小さな祠程度の神社が多いのですが、今回の五条天神社(天神宮)や菅大臣神社のようなまずまず大きな社殿を持つ神社もあります。
今回はこの地区では最も良く知られている下京区松原通西洞院西入ル天神前町にある五条天神社(五条天神宮 ごじょうてんじんしゃ、てんしんしゃ)です。
五条天神社(五条天神宮)は、洛中では最も由緒ある古社のひとつで、祭神として大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っています。創建は平安時代に遡ると伝えられ、社伝によれば延歴十三年(794)、平安遷都にあたり、都の守護として桓武天皇が大和国宇陀郡から天神を勧請したのが始まりで、弘法大師空海が開いたとも伝えられます。また、当初は「天使の宮(天使社)」と称しましたが、鎌倉時代初期の後鳥羽天皇の時代に「五条天神宮」と改めたということです。
創建当時は、森に囲まれた広い境内を持ち、社殿も非常に豪華だったようです・・現在の神社の南側には、六条通りまで約五百メートルに渡って、「天使突抜一丁目」、「同二丁目」、「同三丁目」、「同四丁目」という町名が南へ連なります・・・これらは広大なこの神社の参道に由来する町名です。
洛中を代表する大社として、五条天神社(天神宮)は、「今昔物語」、「宇治捨遺物語」、「徒然草」等にも登場しているのですが、特に、「義経記」では、源義経が弁慶と初めて出会った場所と記され、さらにこれを題材にした能曲「橋弁慶」によって広く知られるようになりました。
室町時代に書かれた「義経記」では、夜な夜な都を徘徊して、既に九百九十九本の太刀を奪っていた弁慶が、森深い五条天神宮で今夜こそ千本に達する残りの一本を得られるようにと祈願する場面が出てきます。やがて、弁慶は笛の音と共に現れた優しげな少年(牛若丸=義経)が神社の参道を通りかかるのを見つけます・・少年の腰には見事な黄金造りの太刀があり、脅せば簡単に奪えると考えたのです。
しかし、牛若丸(義経)の方も、都を徘徊して太刀を奪っている男はこの男だと気づいていました。そして、弁慶の攻撃に対して中国の兵書「六韜」の技を用いて、素早い身のこなしでかわしました。(こうして、この最初の戦いで敗れた弁慶は、その後、再び清水寺での牛若丸(義経)との戦いを経て家来となることを誓います。)
この「義経記」の記述とは違って、一般に義経と弁慶は五条大橋で出会ったという話しが有名ですが、元々、豊臣秀吉の時代まで、現在の松原通が五条通でした。そして、松原通が鴨川と交差する「松原橋」が「五条橋」でした。さらに、現在の神社の東にある西洞院通には昔は川が流れていて、そこに架かっていた橋こそ、義経と弁慶の伝説の舞台とも伝わっています。(後に豊臣秀吉が橋を移して、平安時代以来の「五条大路」も無くなり、東にあった松並木から「松原通」と呼ばれるようになり今日に至ります。)
さて、平安時代には森に囲まれた大きな神社だった五条天神社(天神宮)ですが、中世以降には度々火災に遭って再建を繰り返し、社域も縮小していきます。幕末の元治元年(1864)の蛤御門の変でも社殿は全焼して間もなく再建され、その後、明治二十一年(1888)の再建を経て、現在の社殿は昭和八年(1933)に建てられたものということです。
また、神社の祭神の少彦名命(すくなひこなのみこと)が医薬神だったことから、五条天神社(天神宮)は、古くから農耕、医薬、また禁厭(まじない)の神として広く崇敬され、現在も厄除け、病除けのご利益があることで知られます。毎年の節分には宝船が授与されますが、この宝船の古図は日本最古のものといわれていて、船に稲穂を一束乗せただけの簡素なものということです。
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