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平将門を祀るといえば、まず東京都千代田区の神田明神(神田神社)が思い浮かびます。また、その他全国各地に将門の首を祀る神社や首塚がありますが、これらは、将門が敗北死した後、天変地異が相次いだため、将門の霊を鎮めようとして造られたもののようです。
一方、京都では、将門はあまりメジャーではありません。将門は若き日に上洛して時の関白藤原忠平に仕えたこともあり、京都とまったく関係が無かったわけでは有りませんが、やはり縁が薄かったために、京都で将門を祀るといってもピンとこないのです。
さて、今回は、知らない人はもちろん、知ってる人でも通り過ぎてしまうような小さな祠です・・元々この地は、関東で新皇を称して逆賊として討ち取られた平将門の首が京都に送られて晒された場所と伝えられています。
平将門(903?〜40)は、桓武天皇の子孫で、平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)の孫にあたり、父良将は下総国(千葉県北部等)を本拠にして勢力を伸ばしていたようです。将門は、青年期に上洛して関白・藤原忠平に仕えますが、父の死によって本拠に戻ります。その後、一族間の領地問題等から平氏一門の間で抗争が広がり、将門は関東一円を次々に占領しました。そして、天慶二年(939)に「新皇」を名乗ったことから朝敵とされ、天慶三年(940)に藤原秀郷や平貞盛らの討伐軍と交戦して滅ぼされました。
その後、討ち取られた将門の首は京都の七条河原で晒されましたが、まるで生きているように目を見開いて、歯ぎしりをしているようだったとも伝えられ、ある夜、突然、首が笑いだし自身の胴体を求めて、関東へ飛び去ったということです。この伝説から各地に首塚が築かれることになります。
さて、下京区四条通西洞院東入ル新釜座町、四条通りから西洞院通の東一筋目の狭い露地に入ると、普通の民家の前に新しい小さな祠があります・・これが「史跡・神田神宮」です。
平安時代に空也上人が、将門の供養のために現在地付近に道場を建てたのが始まりともいわれ、東京都千代田区の神田明神境内にある将門社から分霊したとも伝わりますが、実際にいつ頃から祀られたかは不明のようです。まさに知る人ぞ知るといった小さな史跡です。
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