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中京区麸屋町通押小路下る上白山町、京都市役所の近くにある白山神社は、町家に囲まれた小さな敷地の神社ですが、平安時代に遡る由緒ある神社ということで、僧兵が捨てた神輿を祀ったという創建話が珍しいです。また、祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、菊理媛命(くくりひめのみこと)です。
さて、平家一門が権勢を振るった平安末期の治承元年(1177)、「平家物語」でも知られる出来事が起こりました・・・後白河法皇の寵臣・西光法師(藤原師光)の子で、加賀の国司に任じられた藤原師高は、着任するや地元の寺社や豪族の荘園を強奪するなどやりたい放題を繰り返しました。
また弟の師経を目代(国司代理の実務担当)に任じますが、この弟も着任するや、霊峰として信仰された白山の末寺・鵜川涌泉寺に乱入します。俗人を禁じている湯屋に押し入って入浴中の寺僧を追い出し、自分や家来だけでなく、馬の体まで洗わせました。これに怒った涌泉寺との間で戦いが始まり、一旦退却した師経は、その夜一千名を集めて涌泉寺を襲撃し寺を焼き払いました。鵜川涌泉寺の僧は本山に訴え、白山側は全山(三社・八院 当時は神仏混交の神宮寺が一般的でした。)の僧兵二千人を集めて師経の館に押し寄せますが、師経は夜間に都へ逃げ帰った後でした。
そこで、白山は、今度は比叡山延暦寺に訴えるために神輿を立てて京へ上りました。これは、白山本宮が久安三年(1147)に延暦寺の別院になって、衆徒も延暦寺の所管となっていた関係によります。(平安時代中期頃から、延暦寺とその鎮守社日吉社は全国に勢力を拡大していきました。白山も延暦寺の権威を背景に加賀で勢力を拡大してきたのです。)
さて、訴えを聞いた延暦寺は、直ちに師高、師経を罰するよう朝廷に訴えました。
当時、勢力を持つ延暦寺の意見は特別扱いされて、朝廷では内容を問わずその訴えを認めてきたのですが、この時は進んで意見する者も無く裁きは中々下りませんでした。
そこで、業を煮やした衆徒や僧兵達は、安元三年三月の未明、八王子宮神輿、客人権現神輿、十禅師宮神輿とともに白山神輿を担いで御所に向かって出発しました。
これに対し、朝廷では源平両軍に門を固めさせます。しかし、鵺退治でも知られる老練な源氏の武将・源頼政は、「神輿に反抗するのは神罰が恐ろしいが、朝廷の命令にも背けない。兵も少ないので、ここは避けて平家が大勢で守る東門から入ってほしい」と叡山衆徒に訴えかけて、自身の責任を回避します。一方、東門を守るは平氏の棟梁・清盛の嫡男の重盛。こちらは真面目に朝廷の命令は守るべしと僧兵に対し攻撃を開始。叡山の僧兵も平家の武力には敵わずにたちまち敗走し、この混乱の中で神輿の一つには弓矢まで刺さります。神罰に恐れ慄いた僧兵らは神輿を路上に放り出して比叡山に逃げ帰ってしまいました・・・そして、残された神輿は地元の人々によりこの地に祀られることになりました。そのひとつが今回の白山神社ということです。
さて、白山神社は、その後度々の火災に遭って神社の記録も失いましたが、最盛期には寺町通から柳馬場通まで東西三百メートルの社域があったということです。そして、祭神の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は、夫婦和合、家運繁盛、子孫長久を守るというご利益があるとして崇敬されました。
さらに、江戸時代中期の女帝・後桜町天皇が歯痛で悩んだ時に女官が白山神社から持ち帰った神箸と神塩を歯痛につけたところ忽ち平癒したと伝わり、この古事により歯痛快癒のご利益があるとして崇敬されるようになったと伝えられます。
また、赤ちゃんの食始めにこの神箸を用いて、塩を付けて食べさせると無病息災の成長が叶うともいわれていて、販売されている箸と箸置き、塩がセットになった「長寿箸」は人気があるということです。尚、境内には末社として猿田彦大神、白菊大神、天満宮を祀っています。
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平家一族が隆盛な時の話ですね。
藤原師高の名前は記憶にありますよ。
でも、白山神社は小さいですが、風格のある構えをしているじゃ無いですか。
それに歯痛を治す、ご利益があるのですね。
☆ポチ♪
2011/3/1(火) 午前 11:41
この小さな白山神社は、京都人でも地元以外の人なら知らない人も多いかもしれませんが、歴史的に面白いエピソードが良いですね。
2011/3/9(水) 午後 2:38 [ hir**i1600 ]