京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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今回は有名な「本能寺の変」で知られる本能寺です・・といっても、ご存知のように現在の本能寺(中京区寺町通御池下ル下本能寺前町)は天正十五年(1587)に豊臣秀吉の命によって移転されられた後の再建で、今回は「本能寺の変」当時の跡地を採り上げます。
旧跡地には今は幾つかの石標等があるのみですが、熱心な信長ファンには関心のある場所でしょう。(本能寺の変は、日本史上の最大のミステリーの一つとして現在も多くの説が書かれていますので、ここは触れずにさらっと書いてみます。)


さて、現在の中京区油小路蛸薬師下る元本能寺南町は本能寺に因む町名で、本能寺の変当時の所在地を示す石標が幾つかあります。
本能寺は法華宗本門流の本山で、応永二十二年(1415)に妙本寺(現妙顕寺)の日隆上人により油小路高辻に創建されたお寺です。当時は本応寺と号しましたが、妙本寺の月明上人との宗論対立(本迹勝劣論争)によって妙本寺の宗徒によって堂宇は破却されました。これにより一時日隆上人は摂津河内に移りますが、永享元年(1429)に豪商・小袖屋宗句の援助を受けて京に戻り、内野(平安京大内裏の跡地)に再建。更に永享5年(1433)如意王丸(足利直義の子)から四条坊門大宮に土地の寄進を受けて移転し、本能寺と改めました。天文五年(1536)に比叡山衆徒の攻撃を受け、他の法華宗本山二十一ケ寺と共に焼失しました。(天文法華の乱)堺に逃れた後、天文十六、十七年(1547、48)頃、第八世日承上人によって西洞院と小川との間の四条坊門(今の蛸薬師)の北の地に再興されました。
そして、信長の仮宿所となった当時は、北は六角、南は錦小路、東は西洞院、西は油小路に囲まれた寺域を持っていたということですが、天正十年(1582)六月二日未明に起こった本能寺の変によって焼失することになります。その後、信長の三男信孝が父の廟を建てたために本能寺は再びこの地で復興されますが、豊臣秀吉の区画整理により、現在の寺町御池の地に移されました。


さて、元本能寺南町には、明治時代から近年まで京都市立本能小学校(元々、明治二年(1869)に下京第二番組小学校として創立して南の空也町で開校、明治五年(1872)に「本能小学校」と改称し、明治六年からこの地に校舎が建てられていました。)がありましたが、平成五年(1993)に明倫小学校との統合により閉校となり、現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっています。
本能小学校の廃校後から昨年(2007)まで幾つかの地域で発掘調査が行われて当時の本能寺の遺構が発見されています。本能寺の変当時に焼けたと思われる瓦等やL字形の堀(幅約6メートル、深さ約1メートル)も見つかっていて、まだまだ謎の多い本能寺の変ですが、少しずつその真相がわかることを期待したいものです。

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