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今回は、下克上の代表的な人物として北条早雲や斎藤道三と並んで「戦国三悪人」の一人ともいわれる松永弾正久秀の墓(供養塔)を採り上げます。
さて、中京区下京区堀川通松原下ル柿本町にある妙恵会総墓地は、現在山科区御陵大岩六にある日蓮宗一致派の大本山、本圀寺(本國寺)の旧跡地にある墓地です。
本圀寺(本國寺)については前にこのブログに書きましたが、少し再掲してみます・・・・建長五年(1253)に日蓮上人が、鎌倉松葉ヶ谷に小庵を設けて法華堂と称したことに始まり、その後、南北朝時代の貞和元年(1345)、日静上人が、北朝の光厳天皇から京都六条に広大な寺領を賜ったことにより、京都に移って本国寺(大光山本国土妙寺)と改めました。
こうして代々勅願道場として多くの塔頭を数える大寺院として発展しましたが、天文五年(1536)の天文法華の法難で、比叡山宗徒らの攻撃を受けて焼失、堺の末寺成就寺に逃れます。その後同十一年(1542)に帰洛を許され、同十六年(1547)に京都六条に再建しました。本國寺はその後、今回の松永久秀や加藤清正、豊臣秀次の母・瑞龍院日秀尼らの庇護を受けて栄えます。天明八年(1788)、天明の大火で一部を残して類焼しましたが、その後順次再建復興されました。
しかしその後、昭和の敗戦後、本寺末寺の解体や寺所の散失等により衰退し、経営難からついに昭和四十六年(1971)寺地を売却し、多くの塔頭を残したまま、本山を現在の京都山科区御陵に移転しました。
現在の妙恵会総墓地は、本圀寺(本國寺)の旧地に残された墓地ですが、この地は元々松永弾正久秀の屋敷跡になります。
松永久秀は本国寺の元塔頭・戒善院の檀徒であった関係で、松永家の先祖の菩提を弔うために天正年間(1573〜91)に戒善院墓地として広大な土地を寄進したもので、江戸時代以来、元塔頭寺院が輪番で四百年以上も維持管理してきました。この長い歴史を知らない人から、他の墓地に比べて整備されていないとの非難も受けるそうですが、墓は勝手に移動させたり集めたりは出来ないものなので、約四百年の間に年代の違う様々な墓が混在した独特の雰囲気になっています。
大正十一年(1922)に現在の妙恵会が組織され、以降は会が墓地の維持管理に当っていて、広い墓地の中心には、昭和初期の墓地整理によって無縁塔が築かれています。また墓地正面中央の堂内には歴代の本圀寺(本國寺)住職の供養塔が並んでいます。
さて、松永久秀に少し書いてみます。
松永久秀について語られる時、必ず出てくるエピソードがあります。信長が挨拶に来た徳川家康に対し、傍に控える松永久秀を指し示して、「この松永久秀という人間は、常人には出来ないことを三度も行った男だ。十三代将軍足利義輝を暗殺したこと、また主家の三好氏を滅ぼしたこと、さらに東大寺の大仏を焼き払ったことである。」と天下の大悪人として紹介したというものです。
松永久秀(1510?〜77)の出生については、阿波(徳島県)や京の西岡(長岡京)等と諸説があり不明な点が多いのですが、やがて、阿波細川家の重臣・三好長慶に右筆として仕えました。そして、その後、約二十年の間に三好家の重臣として活躍して三好家の家宰に任じられます。三好長慶が主家の細川家を圧倒して実権を握ると、久秀も室町幕府の政治に関わり、摂津国滝山城(神戸市中央区)、大和国信貴山城(奈良県生駒郡)、多聞山城(奈良市法華寺町)等を居城として、三好長慶の畿内制覇を助けました。
久秀はこのように三好家の重臣として揺ぎ無い地位を得ますが、この頃から三好氏では、主君の長慶を不幸が襲います・・・永禄四年(1561)には長慶の弟の十河一存が不慮の死を遂げ、翌五年(1562)には同じく弟三好義賢(実休)が戦死。さらに翌六年(1563)には長慶の嫡男・義興が急死します。これら相次ぐ一族の死により、長慶は次第に気力を失っていきますが、一説には松永久秀が主家・三好家を乗っ取るために讒言により長慶と弟達の中を割いたとされ、また長慶の嫡男・義興は久秀によって毒殺されたとも考えられています。そして、永禄七年(1564)には三好家を支えてきたもう一人の弟・安宅冬康も、久秀の讒言によって長慶自らの手によって誅殺されました。弟の殺害後、その無実を知った長慶は悲嘆にくれて同年(1564)七月に病死し、久秀は長慶の養子で十三歳の三好義継を傀儡として擁立し、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と共に三好家の実権を握ります。
さらに、翌永禄八年(1565)五月、久秀と三好三人衆は、将軍の権威回復を図ろうとする第十三代将軍・足利義輝を二城御所に襲って、これを暗殺しました。その後、久秀と三好三人衆との対立が表面化して抗争となり、久秀は、永禄十年(1567)十月に三好三人衆が陣を置く東大寺を攻撃、この混乱の中で大仏殿は焼失しました。
さて、久秀と三好三人衆が抗争を繰り返している最中の永禄十一年(1568)九月、織田信長が上洛してくると、三好三人衆は逃亡し、久秀と三好義継は降伏します。この時、久秀は名茶器として知られていた「九十九髪茄子の茶入」を信長に献上して、大和一国を安堵されました。
その後、久秀は信長の家臣として石山本願寺攻め等に参加しますが、第十五代将軍足利義昭を中心に浅井、朝倉、武田、毛利、三好三人衆、石山本願寺等が参加して信長包囲網が形成されると、信長不利と見て信長包囲網に加わります。しかし、元亀四年(1573)四月に最大の強敵・武田信玄が病死したことにより、信長による反撃が開始され、七月には足利義昭が追放されて室町幕府が滅亡、さらに同年(天正元年と改め)朝倉、浅井、三好三人衆、三好義継が滅ぼされる事態となり、久秀は多聞山城を差し出すことで再び信長に降伏を許されました。悪人でも使えそうな有能な人物は生かしておくというのが、信長流なのかもしれません。
ところが、天正五年(1577)、上杉謙信が、毛利や石山本願寺、紀州雑賀衆等の反信長勢力と呼応して上洛するという噂を聞いた久秀は、信長の命令に逆らって本願寺攻めから勝手に離脱し、信貴山城に籠もってまたもや反逆しました。しかし、元亀の騒乱時代と違って、織田軍は手取川の戦いで上杉謙信に敗北したにもかかわらず余力十分だったため、信貴山城はたちまち信長の嫡男・信忠を総大将と織田軍に包囲されて猛攻撃を受けることとなりました。
この時、久秀は信長がかねてから所望していた「平蜘蛛の茶釜」を献上すれば許そうという誘いを拒否して、十月十日信貴山城の天守閣で「平蜘蛛の茶釜」を叩き割り(或いは茶釜を抱いて)、火薬に火を転じて壮絶な爆死を遂げたのでした。
久秀の六十八歳の生涯は、上記のような数々の陰謀や裏切りに彩られていますが、一方で連歌や茶道に長けた教養人であったともいわれ、大和の領国では善政を行ったとも伝えられています。
さて、久秀の墓は、京都の他にも奈良県北葛城郡の片岡山達磨寺、奈良県三郷町等に伝えられていますが、妙恵会総墓地には、久秀父子の合葬墓碑があります。
墓地の中央近く南向きに立つ墓には、正面中央に久秀の法名「妙久寺殿祐雪大居士」と刻まれ、その右には久秀と共に信貴山城で戦死した子の久通の法名「高岳院久通居士」が刻まれています。(一番左の法名は誰なのか不明ということです。)
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