京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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下京区高辻通室町西入繁昌町、街中の一角に、繁昌神社(はんじょうじんじゃ)という珍しい名前の小さな神社があります。「繁昌」という名前の神社は日本で唯一ということで、商売繁昌のご利益を願う方が訪れているようです。
また、神社から西北に大きな石の上に小祠が祀られている場所があり、「班女塚(はんじょつか、はんにょつか)」と呼ばれています。


さて、繁昌神社の祭神は、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たきづひめのみこと)の三神で、古代インド伝来の弁財天(弁才天)と習合して多くの信仰を集めてきました。当神社の弁財天は、安芸の宮島、京都の神泉苑に祀られている祭神と同体とされ、悪縁消滅や良縁成就、商売繁昌の守護神とされています。

神社の創建についてです・・・元々、この地(現高辻新町)には、平安時代の第五十六代清和天皇の貞観年間(859〜76)に、藤原繁成という武将の館があったと伝えられます。そして、醍醐天皇の延喜年間(901〜21)頃に、この邸宅の庭にあった功徳池という池中の小島に、安芸の宮島の弁財天を勧請したのが繁昌神社の創建と伝えられます。その後、中世には真言宗功徳院という神仏混交の神宮寺となりましたが、明治の神仏分離令によって神社のみがこの地に残ったと伝わり、この時に弁財天を三女神に改めたのでしょう。また、豊臣秀吉が、一時、当社を東山五条の佐女牛(さめうし)八幡宮社の近く移した後に、祟りがあるとして再び元の場所へ返したとも伝えられるそうです。



さて、神社の西北、駐車場の奥には「班女塚」があります。
「班女塚」は、平安時代に長門前司の娘を葬った塚と伝えられていて、繁昌神社の旧鎮座地とされています。このもう一つの繁昌神社創建にまつわる伝説については、鎌倉時代初期の説話集「宇治拾遺物語」に記されているので書いてみます。(「宇治拾遺物語」第三巻「長門前司女、葬送の時本所にかえる事」より)

≪昔、前長門国守に二人の娘がありました。姉は嫁いでいましたが、妹の方は若くて、宮仕えを辞めた後は家にいて、定まった夫もなく、ただ時々通ってくる男がいました。高辻室町のあたりに家があって、父母も亡くなり姉と同居していましたが、家の奥の方に姉が住み、妹は家の南面の西にある妻戸口で男と語らい等していました。

さて、妹は二十七、八歳程になった頃、たいそう患った末に亡くなってしまいました。妹の遺体は家の奥が狭いために、妻戸口に寝かせましたが、そのままにもしてもおけないので、姉などが準備した車に遺体を積んで鳥辺野(平安京の葬送地)へ運びました。さて車から降ろしてみると、棺が軽くて蓋が少し開いています。不思議に思って開けてみると、なんと棺の中には何も入っていませんでした。「途中で落ちるはずなど無いはずなのに、どうしたことだろう」と人々は驚き呆れました。

どうしようもなく、そうかといってそのままにしておくわけにもいかず、人々は来た道を走って探しながら家へ帰りつきました。人々がもしやと思って見ると、遺体は妻戸口に、元のままの姿で臥せていました。まったく意外なことで恐ろしさから「どうしたらよいか」と家人が集まって騒いでいる内に夜も更けたので、翌朝また遺体を棺に納めて、今度はしっかりと準備し夜にでも送り出そうとしました。
ところが、夕方になってみると、また棺の蓋が細めに空いています。家人が恐ろしがりながらも近寄って確かめると、遺体はもとの妻戸口に臥していました。

いよいよ驚き呆れながらも、遺体をもう一度棺の中へ入れようとすると、今度は土から生えた大木を引き抜くようなありさまで、まったく動きません。そこで、仕方なく、「これは、ここに居たいということなのでしょう。それではこのまま、ここにお置きしましょう。しかし、これでは見苦しいでしょうから」といって、妻戸口の板敷を壊して、そこに降ろそうとしたところ、案外軽々と降ろすことが出来ました。そこでやむを得ず、妻戸口一間の板敷など取り壊し、そこに遺体を埋めて高々と塚を築きました。

家人らも遺体を埋めた場所で向い合って住むのは気味が悪いといって、他所へ引っ越してしまい、その後、月日が経つに連れて寝殿も壊れて無くなってしまいました。そして、気味の悪いことがあるという言伝えのために、人々はこの塚のそばには寄り付かなくなりました。その場所は高辻より北、室町よりは西、高辻表のうちで、周りの六、七間のところには小家もなく、その塚ただ一つだけが高々とあり、そして、この塚の上には、どうしたわけか、神の社一座が祀られるようになりました。そして今もそのまま在るということです。≫


この長門前司の娘の塚が、その後、弁財天を祀って「班女社」や「半女社」等と呼ばれるようになり、後に「繁昌」に転じたといわれています。(また、一説には弁財天が「針才女(はりさいじょ)」とも呼ばれていたことから、針才女の音が訛って繁昌神社と称したと伝わります。)
繁昌神社の創建に関しては、この「宇治拾遺物語」の不思議な物語の方が、圧倒的にインパクトがありそうです。「高辻より北、室町よりは西・・」という位置もほぼ現在地と同じでもあり、石仏や小さな祠等が点在している「班女塚」の辺りは、今もどこか少し不気味な雰囲気が漂っている気もします。

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