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下京区烏丸通松原下る俊成町、ビル街の一角にある俊成社(しゅんぜいしゃ)は、たいへん小さな祠ですが、京都のビジネス街の中心地・烏丸通に面しているので割りと見つけやすい神社です。小さな祠を見つけて立ち止まる人も見かけます。
元々、この地は、平安時代末期〜鎌倉時代初期を代表する歌人で、藤原定家の父でもある藤原俊成(ふじわらのとしなり しゅんぜい)の邸跡とも伝えられます。
そして、時代は不明ですが後世の人が俊成の霊を祀ったものが神社の始まりのようです。そして、現在も俊成の命日である11月28日に、俊成の画像と稲荷大明神の軸を掲げて「お火焚祭」が行われるということです。
ここで俊成について少し・・
藤原俊成(1114〜1204)は、平安時代末期の永久二年(1114)に藤原北家の傍流の家に生まれ、鎌倉時代初期の元久元年(1204)に九十一才で亡くなるまで、人生の大半を歌道の第一人者として活躍しました。特に、寿永二年(1183)から後白河法皇の命により、勅撰和歌集「千載和歌集」を編纂したことで知られます。(千載和歌集は文治四年(1188)頃成立)
また、俊成について最も良く知られた逸話は、「平家物語」巻第七「忠度都落(ただのりみやこおち)」に記されています・・・
平家の武将として知られる平忠度は、武勇だけでなく歌人としても優れた才能を持っていました。
寿永二年(1183)の平氏一門の都落ちの際、一旦都を離れた忠度は、僅かな供を連れて再び都へ戻り、歌道の師・俊成のもとを訪ねます。到着してみると、俊成の屋敷の門は固く閉ざされ、屋敷の中では平家の落人が戻ってきたと家人達が騒いでいます。しかし、俊成は忠度と知って門を開けさせます。
師弟は対峙しながら運命の変遷にしばし思いを寄せます。忠度は「これまで歌道を教えていただきながら、決して粗略にしていたのではありませんが、ここ二三年は都や地方の騒乱等、当家の身の上のことで、訪れることが出来ませんでした。」と、これまでの無沙汰を詫び、さらに、「幼き天皇も都を落ち、平家一門の運命も尽きようとしています。私は、もし勅撰和歌集の選定があれば、和歌を嗜んだものとして生涯の栄誉のために、せめて一首でも入れていただければと思っていましたが、世の乱れのために中止となり非常に残念に感じています。今後世の中が治まって、また和歌の選定があれば、この巻物の中にそれに相応しいものでもあれば、一首でもお選びいただければ、草葉の陰からもうれしく思い、あの世からお守りさせていただきます。」と頼み、忠度がこれまで書き留めてきた中でも特に優れた和歌を記した巻物を鎧の合わせ目から取り出して俊成に差し出します。
俊成は巻物に目を通し、「このような忘れ形見をいただきましたからには、決して粗略にはしませんのでご安心ください。それにしてもこの度のお越しは、情けも深くしみじみとした深いお気持ちに、感涙をおさえられません。」と語れば、忠度は喜んで、「今はもう我が死体を山野に晒さば晒せ、我が名を西海の波に流さば流せの気持ちです。この世に思い置く事もありません。さらばお暇申し上げます。」と馬に乗って兜の緒をしめ、西に向かって去っていきました。
俊成が去っていく忠度の姿を遠くまで見送っていると、忠度と思われる声が、「前途程遠し、思いを雁山の夕べの雲に馳せる」と高らかに口ずさまれました・・・遥か遠い中国の雁山にかかる雲に例え、二度と再会できないだろうという別れを惜しむ決別の詩でした・・・・俊成の気持ちもまた同じで、たいそう名残惜しく哀れに思われて、涙を抑えてを邸に入りました。
その後、世の中が落ち着いて、俊成が勅撰集を選定することになりましたが、忠度の生前の様子や言い残したことを思い起こすと、今さらながら哀れに感じました。忠度から託された巻物の中には選ぶに足る優れた歌はいくつもありましたが、忠度が勅勘を受けた身ということで、その苗字を表さず、「故郷の花」という題で詠まれた歌一首を、詠み人知らずとして入れたのでした。
「さざ波や 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな(読み人知らず)」
さて、その後、平忠度は、一の谷の戦いで源氏の武将岡部六弥太忠澄に討たれます。
忠澄は、装束から討ち取ったのが敵の大将だと思いましたが、その名前が判らず、箙(えびら)に結び付けられていた文を解いてみると一首の和歌が書き付けられていました。
「行き暮れて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし (忠度)」
歌道にも武芸にも秀でた忠度が討ち取られたことを知った源平両軍は、共にその死を惜しんだと平家物語は伝えます。
また、謡曲「俊成忠度」は、以上の平家物語のエピソードをモチーフにしたものです。
忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄は、平忠度の矢籠に残されていた短冊を持ち帰って都に戻り、忠度の和歌の師であった藤原俊成の邸を訪れます。
短冊には「旅宿の花」という題で、「行き暮れて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし」と書かれていました。俊成が文武に優れた忠度の最後を惜しんで冥福を祈っていると、忠度の亡霊が現れます。忠度の亡霊は、千載集に「故郷の花」という題で私の歌を選んでいただいたのはありがたいのですが、「詠み人知らず」となっているのが気になりますと詰ります。
俊成は忠度が朝敵であるがために仕方がなかったことを詫び、この歌がある限り後世に必ず名は残るでしょうと慰めます。俊成と忠度は互いに歌道のことを語り合いますが、突然忠度が地獄の修羅道の苦しみを受けます。しかし、まもなく梵天が忠度の歌に感じて苦しみを解き、忠度の亡霊は夜明けと共に消え去っていくというストーリーです。
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