京都を感じる日々★古今往来Part1・・・京都非観光名所案内

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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上京区新町通寺之内下る安楽小路町にある光照院は、山号を仏日山という浄土宗知恩院派の門跡尼寺で、「常盤(ときわ)御所」ともいわれています。
山門横に「持明院御所」跡地を示す石標があるように、元々この地には、鎌倉時代の歴代上皇の仙洞御所となった持明院(じみょういん)家の邸宅があり、邸内には安楽光院(あんらくこういん))という寺院がありました。そして、この持明院御所を拠点にした持明院統(第八十九代後深草天皇の系統)と、大覚寺を拠点とした大覚寺統(第九十代亀山天皇の系統)との対立が、南北朝の分裂をもたらした事は良く知られています。
この歴史的な地に建つ光照院は、由緒ある門跡寺院らしい落ち着いた雰囲気のお寺ですが、通常非公開です。(数年前に「京都の冬の旅」で特別公開されています。)



まず、平安時代末期以降に、この地にあった持明院について少し・・・
持明院は、平安時代末期の貴族で諸国の国司を歴任した藤原基頼(1040〜1122)が、康和年中(1099〜1103)にこの地にあった邸宅内に建立した持仏堂の名前に由来します。その後、子の大蔵卿通基は天治年中(1124〜25)にさらに堂宇を整備し、家名を持明院とすると共に寺院は「安楽光院」と称しました。そして、大治五年(1130)には鳥羽上皇が安楽光院の落慶法要に臨幸しています。
さて、持明院家と皇室との結び付きは、通基の子、中納言・持明院基家(藤原基家)の娘陳子(北白河院)が守貞親王(もりさだしんのう 1179〜1223)に嫁いだことから始まります。

守貞親王は、高倉天皇の第二皇子で、安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟にあたります。
兄の安徳天皇が平家と共に西国に逃れた際、七歳の親王は皇太弟として同行し、平家滅亡の際に源氏に救出され都に帰りました。守貞親王が都に戻ると、既に同母弟の尊成親王(六歳)が、祖父の後白河法皇の指示によって天皇に即位していました・・・後鳥羽天皇です。
天皇になれなかった守貞親王は、その後、持明院基家(藤原基家)の娘陳子(北白河院)を妃にして、持明院邸を御所(持明院第)としていましたが、弟の系統が次々と天皇(後鳥羽、土御門、順徳・・)となっていくのに対し、自らの不遇な立場を嘆いて建暦二年(1213)出家してしました。

しかし、再び運命が変ります。弟の後鳥羽上皇が、承久三年(1121)に鎌倉幕府倒幕の兵を挙げ敗北したのです。(承久の変)これにより、後鳥羽、土御門、順徳の三上皇は各々流罪となり、仲恭天皇(順徳上皇の皇子・懐成親王)は退位させられます。
鎌倉幕府は、後鳥羽の血統を全て排除して皇位継承者を探した結果、出家していた守貞親王(行助入道)の子・茂仁王(十歳)を即位させました。(後堀河天皇)そして、後堀河天皇がまだ幼かったために、父の守貞親王(行助)が院政を行うことになりました。
太上天皇の位を賜わった守貞親王(行助)は鎌倉幕府との関係修復に努め、貞応二年(1223)に亡くなりました。(後高倉院と称されます。)しかし、この後高倉上皇(守貞親王)の血統も間もなく跡絶える事になります・・貞永元年(1232)、二歳の四条天皇に譲位して上皇となった後堀川は、天福二年(1234)に二十三歳で崩御。四条天皇も仁治三年(1242)に十二歳で事故死したために、再び後鳥羽の血統から皇位継承されることになりました・・・後嵯峨天皇(土御門天皇の皇子)の即位になります。


仁治三年(1242)に即位した後嵯峨天皇は、寛元四年(1246)に後深草天皇(四歳)に譲位して院政を敷いて実権を握り、正元元年(1259)に後深草天皇に対し、弟・亀山天皇(十一歳)への譲位を促しました。さらに、後嵯峨上皇は亀山天皇後の皇位継承者として、後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子としましたが、これが後深草・亀山兄弟の、さらに後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の対立のきっかけになりました。
そして、文永九年(1272)に後嵯峨上皇が鎌倉幕府に皇位決定権を委ねて崩御すると、幕府は亀山天皇を支持し、亀山天皇は後宇多天皇(亀山天皇の皇子)に譲位して院政を行いました。しかし、その後、後深草上皇側が巻き返し、伏見天皇(後深草天皇の皇子)を即位させることに成功します。そして、その後は鎌倉幕府の裁定により、後深草・亀山両帝の子孫の間で約十年ごとに交互に皇位を継承(両統迭立)することになりました。



さて、長くなりましたが、持明院基家邸を里御所とした守貞親王(後高倉上皇)に始まり、さらに妃の北白河院、子の後堀河上皇の仙洞御所(上皇の御所)となった持明院第(持明院御所)は、後嵯峨、後深草両上皇以下の系統の仙洞御所にもなりました。こうして、後深草天皇から後小松天皇に至る系統は持明院統と呼ばれることになりました。しかし、持明院第(持明院御所)は、文和二年(1353)二月四日に炎上して安楽光院を除いて全焼し、その後安楽光院も応仁の乱で荒廃しました。(尚、安楽光院は、「安楽行院」ともいわれ、後に深草に再建され明治に廃寺。ブログの嘉祥寺、深草十二帝陵で少し触れています。)

ようやく光照院です・・・
光照院は、南北朝時代の延文元年(1356)に、後伏見天皇の皇女・進子(ますこ)内親王が二十二歳で得度して自本覚尼と称し、室町一条の北に天台・禅・律・浄土四宗兼学の道場として創建したのが始まりと伝えられます。その後、応仁の乱で焼亡しますが、現在地の持明院旧地に再建され、一時は旧跡から安楽光院と称しましたが、後に光照院に復しています。 そして、以後は代々の皇女が尼門跡となりました。光照院は、享禄二年(1529)に仏殿を残して焼失、さらに江戸時代には享保十五年(1730)の大火以降しばしば火災に遭い再建を繰り返しています。そして、寛政元年(1789)に光格天皇の御下賜金によって復興した際に、「常盤御所」の称号を賜わりました。

現在の本堂は昭和四十三年(1968)に、古建築を改装した入母屋造、軒唐破風付の建物で、書院は京都御苑内にあった旧桂宮御殿の一部を移築したものです。本堂には本尊釈迦如来立像、開山自本覚公像を安置し、また格天井には田能村直外筆による「四君子」(しくんし)が描かれています。また庭園は、樹齢五百年と伝わる五葉の松を配した枯山水庭園です。
また、明治時代に光照院の歴代皇女の墓は同じく皇室とのかかわりが深かった華開院(上京区行衛町 ブログに掲載しています)に移設されています。(華開院内の光照院宮墓地には、後陽成天皇皇女・尊清女王墓、後水尾天皇皇女・文察女王塔、 後陽成天皇皇女・尊英女王墓、後陽成天皇皇女・尊蓮女王墓、霊元天皇皇孫女・尊梁女王墓、後西天皇皇女・尊杲女王墓、中御門天皇皇女・尊乗女王墓があります。)

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