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ずっと前に少しだけ採り上げた船岡山ですがもう少し書いてみます。
北区紫野北舟岡町にある船岡山は、京都の市街地内にある周囲1300m、標高112m(山頂にある三角点で111.89m)、面積2万5千坪の丘陵です。船岡山は、平安京以来の京都の歴史を語る上で貴重な遺跡でもあり、全域が国史跡に指定されています。
京都市街地にある丘と言えば船岡山の他に、双ケ丘や吉田山などがあります。
双ケ丘は山裾が散策路として舗装整備されていますが、丘全体は自然林や植林による森といった印象です。吉田山も吉田神社の神域になり、参道周辺以外は深い森で覆われています。
これに対し船岡山ですが、東南に織田信長を祀る建勲神社の深い森に囲まれた神域がありますが、西側一帯は広い舗装散策路が整備されていて簡単に登ることが出来ます。建勲神社の周辺は、豊臣秀吉の時代から信長を祀る霊地として自然が維持されてきたために、京都盆地特有の樹相が良く保たれている市内有数の貴重な森となっています。また公園部分はウォーキングや自然観察、スポーツ等が幅広く楽しめ、京都市街を一望できる市民の憩いの場になっています。建勲神社と船岡山公園という二つの顔があるところが船岡山の魅力なのかもしれません。
さて、船岡山は平安遷都の際に極めて重要な役割を持ちました。
新都建設に際しては、風水思想によって立地条件に合った土地を探りましたが、船岡山が北方の守護神玄武に例えられ、ここを基準点として平安京が造成され、また船岡山からの直線の延長線上に平安京のメインストリート朱雀大路が作られたといわれます。船岡山が無ければ平安京は無かったかもしれないともいえる訳です。(船岡山にある織田信長を祀る建勲神社境内には、平安遷都に影響を及ぼした船岡山の地の神・玄武大神を祀る船岡山妙見宮があります。)
平安時代初期には船岡山上で祭祀が行われた記録もあり、現在山頂に残っている大きな磐座は、その祭祀の跡という説もあるようです。
さらに平安時代には、船岡山は地形が船に似ているとして「船岡」と呼ばれ、景勝の地として貴族の遊宴や遊猟が行われました。平安文学にも度々登場し、清少納言は「枕草子」に「丘は船岡…」と船岡山が丘として一番だと書いています。平安中期以降は、付近一帯は葬送の地となり、保元の乱で敗れた源為義らが処刑された場所でもあります。
その後、中世後期には丹波から洛中に入る京都への北の入口、戦略の要地としてこの丘をめぐる攻防が行われています。
応仁の乱では、西軍の大内政弘、山名教之らがこの地に陣を布いて小競り合いが行われ、応仁二年(1468)九月には西軍が三方から攻撃し攻め落としました。しかし本格的な陣地は築かれなかったようです。また、足利将軍家と管領細川家の内紛の際も戦場となっています・・永正八年(1511)八月、一旦丹波に逃れた将軍足利義尹が細川高国、大内義興らとこの岡に山城を築いていた細川澄元・細川政賢を攻め京都を奪回しています。現在、船岡山中腹にこれらの古戦場を示す「応仁永正戦跡舟岡山」の標石が建てられています。
また、豊臣秀吉は船岡山を大徳寺に寄進し、この地に主君信長の廟所として天正寺という寺院の建立を計画しますが中断となり、ようやく明治時代になって織田信長を祀る建勲神社(たけいさおじんじゃ、通称、けんくんじんじゃ)が中腹に建立されました。(明治二年(1869)に、明治天皇が東京に創祀、明治八年(1875)に京都の船岡山中腹に遷座、同四十三年(1910)に船岡山東側の山頂付近(現在地)遷りました。尚、建勲神社については別に採り上げます)
そして、船岡山の北西部分に昭和六年(1931)に都市公園として船岡山公園が整備されました。
公園には幾つかの遊歩道があり、運動ができる広場や、児童公園、野外演奏場等があり、あずまやのある休憩所、そして山頂の広場からは京都市街が一望できるようになっています。また、八月十六日の「大文字五山の送り火」では、鳥居形を除く残り4ヶ所の送り火が見られる場所としても知られ、送り火の当日は多くの方が山上に集まります。
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