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京都には多くの史跡がありますが、一番人気なのは恐らく幕末関係の史跡では無いでしょうか?
幕末は、京都が歴史の大舞台となった最後の時代でもあり、数多い史跡があります。(残念ながら多くは石標が残るのみですが)そして、熱心な幕末ファンの中には、それらの史跡を一つひとつ全て訪問される方も多いようです。
今回採り上げた土佐稲荷・岬神社(とさいなり・みさきじんじゃ)も、一見して小さな神社に過ぎませんが、龍馬ゆかりの・・・となるだけで注目スポットになるのかもしれません。
(境内にある龍馬像の頭部が刻まれて無残な姿になっているのが残念です。)
さて、多くの人が行き交う繁華街、中京区木屋町周辺には、
島田左近遭難の地
大村益次郎寓居跡碑
桂小五郎・幾松寓居跡碑
佐久間象山・大村益次郎遭難の地碑
佐久間象山寓居跡
吉村寅太郎・武市端山寓居跡碑
佐久間・大村遭難の地案内碑
池田屋跡碑
坂本龍馬寓居跡碑
彦根藩邸跡碑
土佐藩邸跡碑
坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地碑
本間精一郎遭難の地碑
中岡慎太郎寓居跡碑
古高俊太郎邸跡碑
といった幕末関係の石碑・石標があります。
この内、中京区木屋町通蛸薬師西南角にあるのが土佐藩邸跡です。
現在、高瀬川と河原町通の間にある元立誠(りっせい)小学校(平成四年(1993)に児童数減少により廃校。現在は地元の自治会行事やイベント等の拠点としても活用されています。)のある辺りには、江戸時代に土佐藩(高知県)の藩邸がありました。
江戸時代初期に開かれた土佐藩邸京屋敷は、藩の京都連絡事務所の役割を持ち、留守居役が詰め、町人の御用掛(ごようかかり)を指定して、各種の連絡事務に当たっていました。当時、藩邸は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋と呼ばれる橋が架かっていたということです。そして、幕末には、この土佐藩邸を根拠地として、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍したことはよく知られます。
さて、土佐藩邸跡の西、蛸薬師通河原町東入る備前島町にある土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られていた神社です。
土佐稲荷・岬神社は、社伝によると、室町時代の貞和四年(1348)に鴨川の流れの中にあった西寄りの中洲(なかしま)の岬に祠を建てて祀られたのが始まりで、岬神社と称しました。その後、社殿は鴨川の西岸に遷され、江戸時代の慶長年間になってこの備前島町に土佐藩邸京屋敷が建設されるとその邸内に祀られることになりました。この時に、倉稲魂命(くらいなたまのみこと)、石栄神(せきえいかみ)の二座を祭神とたために、通称土佐稲荷・岬神社と称されるようになったと伝えられます。
その後、神社は土佐藩邸内の人々をはじめ、幕末の志士坂本龍馬等からも崇められ、近隣の人々からも崇敬されたので、異例の措置として神社に参詣する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていたということです。
さて、土佐藩邸、さらに地元の先斗町、木屋町の町衆から産土神として崇敬された土佐稲荷・岬神社でしたが、明治維新で土佐藩邸が売却されたために、一時、下大阪町(中京区)に遷座し、元の社殿も荒廃しました。その後、備前島町の近江屋(坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された場所として知られます)の初代・井口新助が、土佐藩用人邸を買い取って、明治二十年(1887)に現在の地に遷しました。
現在の社殿は、 大正二年(.1913)にの先斗町、木屋町の信徒らの募金によって建立されたものです。また、近年には地元の信徒らによって崇敬会が設立され、社殿や明治十年(1877)から伝わる神輿も修復され、、火除け、厄除け、大願成就、縁結びの神として信仰されているということです。
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