京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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中京区六角通大宮西入る(神泉苑西入南側)因幡町には、民間の更生保護施設があり、刑期を終えた身寄りの無い人等の更生と社会復帰を担っています。この施設の周辺は、かつて六角牢獄(六角獄舎、三条新地牢屋敷)があった場所になります。六角牢獄は東西約六十五メートル、南北約五十メートルあり、周囲は堀で囲まれ、内部は一般牢、キリシタン牢、女牢などに分かれていたということです。


さて、六角牢獄といえば、二つの大きな出来事で歴史的に知られます。
一つは、山脇東洋が日本で最初の人体解剖を行った場所である事。もう一つは、幕末に平野国臣ら尊王攘夷派の志士達が惨殺された悲劇の場所であることです。
山脇東洋については伏見区深草の真宗院を採り上げた時に、また平野国臣に関しては、上京区の行衛町の竹林寺を採り上げた時に書いていますので、転載しながら書いてみます。



山脇東洋(1705〜62)は、本名を尚徳といい、宝永二年(1705)、丹波国亀山(京都府亀岡市)の医者の清水家に生まれました。父の清水立安は東洋医学の第一人者・山脇玄脩(1654〜1727)の門下に入って医学を学んでいましたが、この縁で、幼少時より聡明だった東洋は享保十一年(1726)、二十一歳の時に乞われて山脇玄脩の養子となり、享保十四年(1729)には家督を相続し法眼の称号を与えられました。
そして宝暦四年(1754)、京都所司代の許可を得て、六角牢獄内で刑死した屈嘉(くつよし)という男の遺体の日本人初の人体解剖を行って、詳細に人体構造を観察したのでした。(尚、解剖された刑死人屈嘉の供養碑は中京区新京極通三条下るの誓願寺墓地に建てられました。)

そして、この時の解剖記録は後に「臓志」として著され、これまで陰陽五行説により基づいて伝えられてきた人間の体内臓器が誤っていたことが判明し医学会に大きな影響を与えました・・時に、後に杉田玄白(1733〜1817)が「解体新書」を著す17年前のことでした。これが実証的な科学精神を医学にとり入れた最初の成果で、日本の近代医学はここから始まったともいわれています。
現在、「更生保護法人 盟親」の入口近くには、山脇東洋が日本で最初の解剖を行った偉業を讃えると共に観臓(解剖)された屈嘉の霊を慰めるために六角牢獄跡を示す「山脇東洋観臓之地」を記念する石標と、「日本近代医学発祥之地」の石標が建てられています。




平野国臣についてです。

平野国臣(1828〜64)は、福岡藩出身の尊王攘夷派の志士として知られます。若くして国学に優れ、やがて安政五年(1858)頃から西郷隆盛等各地の尊攘派と交わって尊王攘夷運動に奔走します。特に安政の大獄の際、幕府から逮捕命令が出た勤皇僧・月照と共に密かに薩摩へ入り、薩摩の支持を得られず前途を悲観した月照と西郷が入水自殺を計った時には西郷を救助しています。その後も大老井伊直弼の暗殺計画や倒幕運動を画策し、文久二年(1862)の薩摩蕃主・島津久光が兵千人を率いて上洛した際は、国臣は薩摩の急進派と連携し、福岡藩主・黒田長溥に倒幕決起のために薩摩との連携と説きます。しかし、島津久光は、これら急進派の動きを知って寺田屋事件を起こして鎮圧、さらに国臣も薩摩藩に捕らえられ、福岡藩に引き渡されます。
国臣は翌文久三年(1863)に赦免されると、京に上って朝廷工作に奔走しますが、八月十八日の政変で朝廷から三条実美ら尊攘派公卿が一掃されてしまったため、この危機を打開しようと、当時大和で挙兵していた天誅組と呼応するために、尊王派公卿・沢宣嘉を擁立して但馬生野の代官所襲撃を企てます。(生野の変)代官所は抵抗無く占領したものの、幕府の命で集結した諸藩の兵に反撃され蜂起は失敗。国臣は逃れる途中で捕らえられて、京都の六角獄舎に繋がれました。

そして、元治元年(1864)七月二十日、蛤御門の変(禁門の変)で起きた火災が六角牢獄に迫りました。入牢者が脱獄逃亡することを恐れた幕吏は、有罪か無罪かの判決を待たないままに、六角獄舎に繋がれていた平野国臣ら三十七名の志士達を、午後二時頃から夕暮にわたって牢内の切支丹牢(きりしたんろう)東側で、全員斬首しました。こうして、平野国臣は「憂国十年、東走西馳、成敗在天、魂魄帰地」と辞世の詞を詠み三十七歳の生涯を終えたのでした。

明治維新後、獄舎は二条城近くに移り(その後、山科に移転)しましたが、明治十年(1877)に、化芥所(けがいしょ ごみ処理施設)となっていた西ノ京刑場址(西ノ京円町付近・西大路太子堂一帯)から、姓名を朱書した瓦片とともに多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で処刑された平野国臣ら勤皇志士の遺骨と確認され、上京区の竹林寺に移葬され、明治四十三年(1910)に追善供養が行われ墓碑が建立されました。また平野国臣の墓は、京都霊山護国神社にも建立されています。




六角牢獄で処刑された悲劇の志士たちです・・(処刑された志士の数は、若干諸説あるようですが、竹林寺の墓碑を参照します)


○生野(銀山)義挙関係五士
平野次郎国臣(37才、備前)、横田友次郎靖之(31才、鳥取)、木村辰之助包房(不詳、鳥取)、本多子小太郎素行(45才、善所)、片山九市春量(37才、丹波)


○天誅組大和義挙関係十六士
水郡善之祐長雄(34才、河内)、長野一郎寛道(26才、河内)、田中楠之助祐信(22歳、河内)、原田亀之助一作(原田喜太郎一作・30才、備中)、吉田重蔵良秀(35才、筑前)、乾十郎嗣龍(37才、大和)、中倉才次郎(25才、土佐)、幸助(古東僕幸助、常助、22才、紀伊)幾助(古東僕幾助、鶴松 25才、紀伊)、森元伝兵衛勝定(31才、河内)、辻幾之助同茂(30才、河内)、保母鉞之助建(保母健景光 23才、備前)、石川一貞幹(22才、鳥取)、古東領左衛門需(46才、淡路)、木村楠馬(24才、土佐)、船田彦次郎貞光(不詳、鳥取)


○池田屋事件関係八士
古高俊太郎正順37才(近江)、今井(津)三郎右衛門有忠46才(但馬)、佐藤市郎(不詳、山口)、吉田五郎(25才、越前)、山田虎之助彪(23才、長州)、内山太郎右衛門直一(22才、長州)、村上俊平(27才、上野)、南雲平馬(29才、上州)


○その他の事件関係八士
河村能登守秀興(45才、京都)、横田清兵衛順宜(俵屋 31才、京都)、長尾郁三郎武雄(足利三代将軍木像梟首事件、28才、京都)、吉川菊松(治)(39才、京都)、丹羽出雲守正雄(31才、近江)、川勝寛治(35才、園部)、厳徭坊佐々木織江(厳徭坊亮親 49才、豊前)、教観坊藤山衛門(34才、豊前)



現在、「更生保護法人 盟親」の入口付近には、「平野国臣外数十名終焉趾」、「殉難勤皇志士忠霊塔」と刻まれた石碑があります。また施設内には、かつて囚人の斬首に使った刀を洗ったとされる「首洗いの井戸」の跡も残っているということです。



最後に、この六角牢獄跡は、中京区役所等のネット情報では位置が今ひとつわかり難いと思いますが、武信稲荷神社(後日ブログに採り上げます。)の正面に立ち、90度左を見れば直ぐ見つかると思います。

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