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上京区の荒神口通寺町東入る荒神町、府立鴨沂高校の東側にある護浄院は、正式には常施無畏寺(じょうせむいじ)と号する天台宗寺院で、通称「清荒神(きよしこうじん)」の名前で親しまれているお寺です。また、「荒神口」という地名はこのお寺に由来します。
境内には鳥居があり、本堂も神社風で、かつての神仏習合の時代を感じさせます。
寺伝によると、本尊の清三宝大荒神は、光仁天皇の皇子・開成親王が摂津国勝尾山で修業した際に、三宝大荒神の尊影を感得して自らその姿を刻んだとものと伝えられます。
父の光仁天皇は、この日本最初の三宝大荒神を祀る霊場として勝尾山に一寺を創建し、これが現在の護浄院(清荒神)始まりと伝わります。その後、勝尾山が遠くて勅旨代参が大変ということで、明徳元年(1390)、後小松天皇の勅命により、乗厳(じょうげん)律師が、洛中醒ケ井高辻(下京区)の地に勧請し、以降、「清荒神」と呼ばれるようになりました。
また、朝廷は、乗厳律師に南北朝動乱の終結祈願を命じ、これを受けて乗厳が護浄院(清荒神)で祈願した際には如来荒神の尊影を感得し、これは南北合一の瑞相であるとして如来荒神像を白檀木に刻んで本尊脇座に安置しました。これが現在祀られている如来荒神像です。
そして、乗厳律師が朝廷に奏上した通りに、明徳三年(1392)に南北朝合一が達成されたことから、以来、当寺に対する歴代の天皇の崇拝は益々篤く、また当時の御所の女官等の厚い信仰を受けていたとも伝わります。その後、慶長元年(1596)、後陽成天皇が自ら白檀木に刻んで一個の厨子に納めて念持仏としていた七体の如来荒神像を下賜されて、本尊の脇座に合わせて祀りました。
慶長五年(1600)、皇居守護のために東南の地に遷座するようにとの勅命によって現在地に移され、「常施無畏寺(じょうせむいじ)」の号を賜りました。この頃、毎年正月、五月、九月に七日間、国家安泰、五穀豊穣、火難即滅の祈祷を行うように命を受け、以来現在も祈祷を続けています。また、元禄七年(1694)に「護浄院」の院号を賜わっています。その後、天明八年(1788)の大火によって本堂他焼失しますが、その後再建されています。明治時代には明治天皇も護浄院(清荒神)を篤く崇拝し、明治五年(1872)まで勅使参向、月並御代拝は明治末期まで続けられていたということです。
光仁天皇の皇子・開成親王が刻んだと伝えられる本尊の三宝大荒神は、悪魔降服の尊体で、「荒神経」では、信仰者はその威力によって「七難即滅」「七福即生」、一切の苦悩から救われると記しています。
国家レベルでは国家安泰、五穀豊穣、火難即滅等。一般の家庭では、火の守護神として炊事場のかまどの上に祀られ、家内安全、家業繁栄、除災招福、火難即滅のご利益があるとされています。
また同じく、後陽成天皇が、当時の住職大空上人から「般若経は、七難即滅、七福即生の宝典」と勧められて、自ら白白檀に刻んで一個の厨子に納めて念持仏としていた脇座の七体の如来荒神像も、信仰者に「七難即滅」「七福即生」、のご利益をもたらす仏像です。さらに同じく脇座の、南北朝動乱の終結祈願を命じられた乗厳律師が白檀に刻んだ如来荒神像は、一般家庭の不和難事を解消するご利益があるとされています。
他に、観音堂に祀られている准胝観音菩薩は、洛陽三十三所観音巡礼第三番札所になっています。「仏母准胝尊」ともいわれ、人々の悩みに答えて救う慈悲深い観音菩薩で、子授けのご利益があることでも知られています。また、尊天堂に安置されている福徳恵美寿神は、元々御所に安置されていましたが、東京への遷都の際に堂上家から護浄院の七福殿に移され「京都七福神」の一つに数えられています。さらに、同じく福禄寿尊は「京の七福神」の一つとして知られています。
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