京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

中京・下京

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下京区寺町通四条下る貞安前之、商業ビル(カメラのナニワ京都店)の片隅にある小さな神社が、火除天満宮(ひよけてんまんぐう)です。ビルのテナントのような可哀想な神社ですが、人通りの多い四条寺町電気街という立地からか、エピソード的に面白いからか、下京区の小さな神社の中では割りと知られているようです。(また神社のHPもあり引用させていただきます。)


火除天満宮は、安土桃山時代の天正七年(1579)、天正5年(1577)頃から九州で多発した兵乱を避けるため、筑紫国大宰府(福岡県)から、一人の老神官が菅原道真の像を背負って入洛し、六条通周辺に祀ったのが始まりといわれます・・・・この創建話は中々印象的です。
天正五年(1577)頃といえば、九州では肥前の戦国大名・龍造寺隆信が肥前の統一をほぼ完成し、豊後の大友義鎮(宗麟)と薩摩の島津義久が日向を巡って戦いを始めようとしていた頃でした。龍造寺・大友・島津の三強がいよいよ九州統一を賭けた決戦を行おうとしていた時期、大宰府周辺にも動乱が及んでいたのかもしれません。


その後、火除天満宮は、天正十五年(1587)に烏丸二条の地に大雲院(だいうんいん)が創建されると、その鎮守社として迎えられました。
この大雲院(現東山区)については、かなり以前にブログに採り上げましたが、天正十五年(1587)に、貞安上人が本能寺の変で非業の死を遂げた織田信長・信忠父子の菩提を弔うため、正親町天皇の勅命により信忠が自殺した御池御所(二条城)の地、二条烏丸に創建したお寺で、寺号の「大雲院」は、織田信忠の法名にちなんでいます。火除天満宮が大雲院の鎮守社となった理由については残念ながら不明です。
天正十八年(1590)年、豊臣秀吉による京都整備計画により、大雲院も四条寺町下るの現在地に移され広大な寺域を得て栄えました。神社も同じくこの地に遷座、慶長二年(1597)、現在地に社伝が完成し、遷座の御祭儀修行の記録があるということです。その後、天明八年(1788)の大火によって、大雲院は焼失しましたが、この時天満宮も類焼にしたと思われます。(その後、大雲院と共に再建されたようです。)


さて、元治元年(1864)の禁門の変の兵火は、南は七条から西は堀川、東は鴨川に至る市中を焼き尽くしましたが、この四条寺町一帯だけが奇跡的に類焼を免れたと伝わります。
また、明治以降もこの付近は三度の火災に見舞われましたが、この神社周辺は類焼を免れたと伝わり、学問成就と共に火除けの神として多くの信仰を集めてきたということです。尚、境内には洛陽天満宮二十五社の第九番の石碑が残っています。

その後、明治の神仏分離令により、火除天満宮は大雲院から分離しました。
そして、大雲院は、昭和四十八年(1973)、四条寺町付近が商業地化したために布教の地としては不適切との判断から、東山の円山公園の傍の現在地へ移転しました。そして、旧雲院跡は、高島屋京都店に隣接する駐車場になっていて火除天満宮の前には大雲院の旧跡を示す石標があります。

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