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下京区七条通賀茂川西入稲荷町、七条大橋の袂にある小さな神社が、松明殿稲荷神社(たいまつでんいなりじんじゃ)です。この神社も、小さな特徴の無い神社ですが、伏見稲荷大社の境外末社で田中社ともいわれるということです。
松明殿稲荷神社の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、他に天智天皇像(木像)と大友皇子像(木像)を安置しています。
社伝によると、創建は平安時代の天暦二年(948)で、「松明殿(たいまつでん)」という珍しい社名は、同十年(956)に勅命によって燎祭(りょうさい)が行われた際に「炬火(たいまつ)殿」の号を賜ったことに由来するということです。
また、江戸時代の安永九年(1780)刊行の「都名所図会」では、伏見稲荷大社の春の稲荷祭の際は、当神社の氏子が松明を灯して七条河原で神輿を迎えていたことから、「松明殿」の名で呼ばれたと記されています。また、当初は、黒門通塩小路辺り(現姉小路公園の東の古御旅町付近)にありましたが、その後、七条東洞院、鴨川西七条北等を経て、宝永八年(1711)に現在の地に移ったということです・・先程の「都名所図会」に記されている松明で神輿を迎えたという様子はこの頃のことになるようです。
尚、境内には末社として天満宮を祀っています。
また、境内西側には、五条坂の安祥院(あんしょういん)の僧で、様々な社会事業でも知られる江戸時代中期の僧・木食正禅(もくじきしょうぜん)養阿の銘のある手洗石及び井戸があります。
木食とは米穀を断って木の実を食べて修業することで、この苦行を修めた僧は、木食上人と呼ばれていました。木食正禅養阿(1687〜1763)上人は、この苦行を修めた江戸中期の僧です。
養阿上人は、丹波(京都府)桑田郡保津村の武士の子として生まれ、二十四歳で仏門に入って「朋厚坊正禅」と改名し、泉涌寺雲龍院で修業しました。高野山で木食行を修めた後、信濃(長野県)や美濃(岐阜県)を行脚し、京都に戻って七条大宮に「梅香庵」という草庵を結びました。
そして、「南無阿弥陀仏」を唱えて念仏行脚するなど念仏聖として、一般寺院から敬遠された罪人や身寄りの無い不遇な人々の魂を供養するため、洛中洛外の無縁墓地を回りました。当時京都には十一ヶ所の無常所(南無地蔵、大谷、西ノ土手、粟田口、最勝河原、元三昧の六つの墓地と、狐塚、阿弥陀ケ峰、中山、千本、七条金光寺の五つの三昧堂)があり、上人はこれら無縁墓地や刑場傍の墓地で墓参りを三年間続け、またこれらの内十ヶ所で死者の供養のための名号碑を建立しています。
さらに、享保十年(1725)、五条坂の安祥院(東山区五条通東大路東入遊行前町)を再建し、また様々な社会事業を行いました。元文三年(1738)に三年もの月日を掛けて東海道五十三次の難所といわれた京都への入口に当る峠道・日ノ岡峠(蹴上から山科へ抜ける旧国道1号線)の改修工事を完了、ここに峠道の管理所、休憩所として最初の庵と同名の梅香庵(木食寺)を建てています。
元文六年(1741)に「法橋」の位を授かって、「養阿」と号し、延享四年(1747)頃には、急坂のある渋谷街道(現・東山区から山科に抜ける渋谷道)の補修工事を行っています。そして、宝暦十三年(1763)に亡くなり安祥院に埋葬されました。
松明殿稲荷神社には、宝暦二年(1752)夏に、七条周辺の人々のために養阿上人が寄進した井戸と手洗石が残っています。民衆のために生涯を尽くした偉大な僧の貴重な遺跡です。
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このブログ。。。
ガイドブックを超えようとしている。。。
2008/4/20(日) 午前 0:45
京都在住の方でも興味が無いような史跡ばかりで恐縮です。
2008/4/20(日) 午前 1:54 [ hir**i1600 ]