京都を感じる日々★古今往来Part1・・・京都非観光名所案内

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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神泉苑その1

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私がなぜか結構好きな神泉苑については、かなり前に感想程度を書いたことがありましたが、神泉苑発行のパンフに基づいて書き直してみます。尚、今回は、桜目当てに訪れたのですが、普段は静かな境内も、桜の咲く季節は訪れる方も多いようです・・・といっても、近くの二条城の数十分の一以下ですが。



さて、中京区御池通神泉苑町東入る門前町にある神泉苑は、鳥居や善女竜王社があることから神社だと思っている方も多いようですが、真言宗東寺派の寺院です。
また、平安京最古の史跡の一つでもあり、平安京当初に建造され現在まで残ってきたのは、東寺とこの神泉苑しかないということで、貴重な文化財として国の史跡に指定されています。

神泉苑は、桓武天皇が延暦十三年(794)に平安京を造営した際に、大内裏の南東の沼沢地を切り開いて設けた禁苑(御所の庭園)でした・・・地質学的には、平安京の大内裏を含む東北地域は花崗岩質でしたが、大内裏の南西地域は湿地帯が多く、神泉苑は湿地帯の東北隅に位置していました。そして、中国の周の文王が動物を放し飼いにしたという宮殿の庭「霊囿(れいゆう)」になぞらえて造られたと伝わり、常に清らかな泉が湧き出していたことから、「神泉苑」と呼ばれたということです。

現存している範囲は、造営当時のほぼ中心の東寄り部分で、十数分の一程度に過ぎませんが、当時の敷地は、南北約四町(約440m)、東西二町(約220m)という広大なもので、現在の地名で言うと、北は二条(現在の二条城の約四分の一、南西部分を含んで)から南は三条(現在の三条大橋付近)まで、東は大宮通から西は壬生の美福門通に至る広大な苑池だったようです。
尚、現在、京都有数の大きな通りである「御池通(おいけどおり)」は、二条通と三条通の間にあり、かつては三条坊門(通)という小路でしたが、後世、神泉苑の池に因んで御池通と呼ばれるようになりました。


苑池の周囲は豊かな木々に覆われ、境内には大池と中嶋を中心に、北に主殿として乾臨閣を建て、他に右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などの豪華な建物があり、池には竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ 鷁(げき)とは想像上の水鳥)の船を浮かべていたようです。そして、平安京の都市計画が進んだ延暦十九年(800)に、桓武天皇が初めて行幸して以来、歴代天皇や貴族の行楽地となり、観桜、納涼、船遊、詩歌、管弦、弓射、相撲等の行事が行われたと伝わります。

その後、平安時代も中期となり、大内裏が政治の中心地で無くなっていくのと時を同じくして、神泉苑は天皇や貴族の行楽地から、宗教的な修法の場所として、また京都市中の人々の灌漑や汲み水等に利用されるようになっていったと考えられています。醍醐天皇(在位897〜930)の時代には、まだ宮中諸行事の記録があるようですが、その後は密教僧の祈雨(雨乞い)修法の地として知られるようになります。




密教僧の祈雨(雨乞い)修法の最も早い時期のものとして知られるのは、弘法大師空海の「天長の祈雨」または「弘法・守敏法力争い」です。

天長元年(824)、畿内で春の大旱魃が発生し、時の淳和天皇は、旱魃に見舞われていた地域を救うため、東寺と並ぶ官寺、西寺の僧・守敏を呼んで神泉苑で祈雨(雨乞い)の祈祷を命じます。しかし、守敏の祈祷は効果なく、雨は十七日目にわずかに降っただけでした。そこで、今度は東寺の僧・空海が勅命を受けて祈祷しますが、やはり雨は降りませんでした。
効果が無い事を不審に思った空海が調べてみると、空海を妬んだ守敏が、密かに雨神である全ての龍神達を祈祷で水瓶に封じ込めて妨害していたことがわかります。そこで空海は、龍神の中で唯一守敏の呪力から逃れていた善女竜王を見出して、竜王を北天竺の大雪山の北にある無熱池(現在のチベットのマナサロワール湖付近)から神泉苑に勧請して、和気真綱(わけのまつな 和気清麻呂の子)を勅使として供え物を準備して祈祷を再開しました。
善女竜王は空海の気持ちに感じて池中から大蛇の頭上に黄色八寸の姿を現しました。するとたちまち黒雲が起こり、三日三晩の間大雨が降り続いたということです。こうして、神泉苑は、弘法大師の御事跡のひとつ、霊地にも数えられています。

尚、こうして空海の勝利となったのですが、この話には続きがあります・・・
京都市南区には、「矢取地蔵(ブログに採り上げています)」という地蔵菩薩が祀られていますが、この地蔵菩薩像は、競い合いに敗れて名声を失った守敏が、復讐のために空海の帰りを待ち伏せて矢を射かけた際に、身代わりに矢を受けて空海の命を救った地蔵といわれていて、その背中にはその時の矢傷があると伝えられています。そして、東寺と対照的に、守敏の西寺は衰退していくことになります。

さて、弘法大師空海以後、神泉苑における密教僧の祈雨(雨乞い)修法は盛んに行われ、恵運、常暁、安慧、真雅、教日、宗叡、益信、観賢、聖宝、元杲、元真、深覚、仁海等、鎌倉時代まで二十名以上の歴史上に名を残す名僧達が、請雨経法、孔雀経法、太元帥法等様々な修法で祈祷を行ったという記録があり、特に、山科小野の地に曼荼羅寺(現在の随心院)を建立した東密小野流の始祖・仁海僧正は、九十六才で没するまで九回(七回とも)の祈祷を神泉苑で行い、「雨僧正」と呼ばれる程だったということです。

祈祷の効果が無かった場合は歌や舞なども総動員したようで、小野小町や静御前も神泉苑で祈雨(雨乞い)をしたという話も伝承されています。
祈祷で駄目なら、和歌ならどうだろうということになり、当時和歌の第一人者の名声があった小野小町が勅命を受けて、神泉苑で「ことわりや 日の本(ひのもと)ならば てりもせめ さりとてはまた 天が下(あめがした)とは」と詠じると、歌の心が龍神に通じたのか、雨が降ったという伝説があります。

また、「義経記」には、高僧達の祈祷も効果が無かったため、美しい白拍子を百人召して祈雨の舞をさせますが、これも九十九人まで失敗。最後に静御前が舞うと雨が降り出し、後白河法皇より「日本一」と称されたという話しが出てきます。また、この時、静御前の舞を見初めたのが義経で、神泉苑は二人の出会いの地だったといわれています。




さらに、神泉苑は、御霊会(ごりょうえ)の発祥の地でもあります。
奈良時代末から平安時代にかけて、当時の人々は、政治抗争で非業の死を遂げたり失脚した皇族や貴族達の霊が、世を怨んで疫病や怨霊として災害等を起こすものと考えていました。
これら御霊・・・・当初は、祟道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂・・他に他戸親王や藤原広嗣が数えられる場合もあります。その後、井上内親王、吉備真備、菅原道真が追加され、「八所御霊」と称されました。

これらの御霊による祟りを防ぐため、鎮魂のためにしばしば御霊会が行われましたが、記録で確認できる最初の御霊会は、清和天皇の貞観五年(863)五月二十日に神泉苑で行われた御霊会です。神泉苑で御霊会が行われ理由としては、怨霊が引き起こした疫病を、水により清めるという意味合いからとも考えられています。
この日、神泉苑では六つの御霊座(祟道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂)が設けられ、金光明経一部と般若心経六巻が演術され、また雅楽の演奏、舞や雑芸なども行われました。そして、この日に限っては神泉苑の四方の門は開かれ、都の人々が自由に出入りして観覧することが許されたということです。

その後、都各地でも御霊会が行われるようになりました。
貞観十一年(869)には、当時の国である五畿七道六十六ヶ国に因んだ六十六の長さ二丈の矛(鉾)を神泉苑に立て、牛頭天王(ごずてんのう=素戔嗚尊(すさのおのみこと))を祀った「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が行われ、これが、後に矛(鉾)に車を付けて、祇園祭の山鉾巡行へ発展していきます。


また、神泉苑は「大鏡」のエピソードに基づいた、謡曲「鷺」にも登場します。
醍醐天皇が、夏の園遊のため神泉苑に行幸した時、池の須崎に一羽の鷺が羽を休めていました。天皇は家来の蔵人にあの鷺を捕らえるようにと命じました。蔵人は葦の間から近づいて捕らえようとすると、鷺は飛び立とうとします。蔵人が「勅諚(ちょくじょう。帝の御意)であるぞ」と呼びかけると、鷺は元の場所に戻って地にひれ伏しました。天皇は大いに喜んで、鷺に「五位」の位を賜りました。そして、天皇から許された鷺は大空に飛び去って行きます・・・これ以降、この種類の鷺は「五位鷺=ゴイサギ」と呼ばれるようになったということです。



さて、禁苑や祈雨(雨乞い)道場として重要な役割を果たしてきた神泉苑も、平安末期になると衰退していきます。
治承元年(1177)の大風で荒廃し、建久年中(1190〜98)に、後白河法皇の次男・仁和寺第六世の守覚法親王が源頼朝に命じて修復させますが、承久の乱(1221)以降に再び崩壊します。執権北条泰時はこれを惜しんで復興し、一時は旧観に復しますが、次第に周囲から荒廃し、応仁の乱(1246)以降は全く荒れるに任され、人家が立ち並んだり、田畑となった部分も出てきました。それでもこの頃は、神泉苑の大池の東北部には水の湧き出す「神泉」が残っていて、ここから流れ出す水が大池を満たしていたようです。

その後、江戸時代の慶長七年(1602)、徳川家康が二条城を築城した際に、神泉苑のこの泉に着目してこの水で城の内外濠を満たそうと考え、泉のある一帯を二条城の敷地内に取り入れました。このため、神泉苑は広大な土地の北部分、全体の約四分の一の面積を失い縮小することとなりました。
この時、築城を担当していた京都初代所司代の板倉勝重は、片桐且元や、九州筑紫の僧・快我上人(覚雅上人とも 神泉苑の中興の祖といわれます)と共に神泉苑の縮小荒廃を惜しんで、その復興を図りました。
慶長十二年(1607)から元和年間(1615〜23)にわたって池畔や堂塔を整備し、池中の嶋には善女竜王を祀るなど平安時代以来の旧跡の保存に努め、また弘法大師との旧縁から東寺の管轄する「神泉苑」と称する寺院となり、寺領四十石を与えられました。天明の大火(1788)による堂塔の焼失と再建、また明治時代の神仏分離令による寺域や境内の改変等がありましたが、昭和十年(1935) に、全域(6945屐¬鵤伽蘢據砲国の文化財として史跡の指定を受け今日に至ります。


次回に続きます・・・

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