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京都府長岡京市今里にある乙訓寺(おとくにでら)は、山号を大慈山(だいじさん)という真言宗豊山派の寺院で、地元では「今里の弘法さん」として親しまれています。また、京都の寺院としては珍しい「牡丹の寺」として知られ、4月下旬〜5月初旬頃に美しい花を楽しむ事が出来ます。京都市内からJRや阪急電車で15分程度といったアクセスの良さもあり、桜の後に楽しめる花の名所として貴重な存在かもしれません。一年を通して魅力のある観光名所もありますが、乙訓寺の場合は牡丹の花が無いと地味なお寺といった印象なので、やはり4月下旬〜5月上旬が絶対のお勧めです。
さて、乙訓寺のある長岡京市を含む京都府南西部(現在の向日市、長岡京市、大山崎町、また京都市西京区・南区・伏見区の一部)は、「乙訓郡(おとくにぐん)」と呼ばれる地域に属していました。(尚、戦後、乙訓郡に属していた久我・羽束師の両村が京都市伏見区へ、大枝・大原野両村が京都市西京区へ、久世村が京都市南区へ編入され、その後、向日町と長岡町も市になったため、現在は乙訓郡に属するのは大山崎町のみです。)
この「乙訓(おとくに)」という地名の語源は、諸説あるようですが、古代にこの地方が、「兄国(えくに)」と呼ばれた「葛野郡(かどのぐん 現在の京都市西部一帯)」に対して、「弟国(おとくに)」と呼ばれていたことに由来するという説が有力です。これは、奈良時代の大宝律令(701)が全国の地方行政組織を定めた際に、葛野郡から分離して新しく郡を作って、これまであった葛野郡を「兄国」とし、新しく誕生した郡を「弟国(乙訓)」と名付けたと考えられています。
奈良時代に編纂された「日本書紀」によると、越前(福井県 近江とも)出身の第二十六代・継体天皇(事実上の初代天皇として現在の皇室に繋がる新王朝を開いたという説もある注目すべき天皇として知られます。)が河内で即位した後、在位十二年(518)三月に、都を「弟国宮」に移したことが記されています。(現在の乙訓寺は、この宮殿跡ではないかとも考えられているそうです。)このように「弟国(乙訓)」は古代から開けた地域だったようで、その後「乙訓」と呼ばれるようになり、現在に至ったと考えられています。
さて、乙訓寺についてです。
乙訓寺の創建時期は不明ですが、少なくとも奈良時代にはこの地にあったとされ、乙訓最古の寺院ということです。寺伝によると、太秦の広隆寺とほぼ同じ頃、推古天皇の十一年(603)頃に、天皇の勅願により聖徳太子が十一面観音菩薩を本尊とする寺院として創建したと伝えられます。
天応一年(781)に即位した桓武天皇は、南都(奈良)の仏教勢力の圧力を嫌って、乙訓郡長岡村(現長岡京市)への遷都を計画し、延暦三年(784)から長岡京を造営します。その際、乙訓寺は王城鎮守の寺院として京内七大寺の筆頭として大増築されたといわれています。当時の寺域は、南北百間(約180m)以上、建てられた講堂は九間(約16.2m)・四間(約7.2m)四方の建築だったと伝えられ、実際、発掘調査によって当時の姿がわかってきました・・・昭和四十一年(1966)、乙訓寺の北側に長岡第三小学校が新設されることになり、北側一帯の発掘調査が行われました。その際、見つかった講堂跡は東西27m、南北12mあり、さらに北側には僧坊跡等も発見されました。これらは、奈良時代末期と平安時代の遺構と考えられ、長岡京時代〜平安時代(空海の別当時代)にかけての全盛期の乙訓寺が東西三町(約327m)、南北二町(218m)あり、現在の敷地一町四方(110m)の6倍の大きさがあったことが判明しました。
さて、延暦四年(785)、長岡京の建設工事が開始されて間もなく、乙訓寺の名が歴史に残ることになったある事件が起こりました・・・長岡京遷都の建言者で、造営責任者だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺されたのです。
藤原種継は、藤原宇合(ふじわらのうまかい 藤原四兄弟の一人)の孫に当たり、桓武の父・光仁天皇を擁立した百川(ももかわ)の甥でもあり、当時、桓武天皇が最も信頼していた側近でした。種継は九月二十三日の深夜、造営工事を検分していましたが、暗闇から何者かが放った弓矢により殺害されたのでした。
捜査の結果、犯人一味として大伴継人ら十数名が捕らえられて処刑され、また死後間もなかった春宮大夫・大伴家持も事件に首謀者として関与していたとして除名、その子の永主らも隠岐へ流罪となりました。また、家持ら事件関係者の幾人かが春宮坊(皇太子の住居で政務機関)の官人だったことから、桓武の実弟で皇太子だった早良(さわら)親王も、事件への関与を疑われました。そして、捕らえられた早良親王が幽閉されたのが、乙訓寺でした。
早良新王は、事件に関係が無いことを強く訴えて絶食しました。しかし、十余日後に流罪処分が決定され、淡路島への配流の途中に河内国の高瀬橋(淀川に架かる橋)付近で憤死し、遺骸はそのまま淡路に送られて埋葬されました。
現在の歴史解釈によると、藤原種継暗殺事件は、光仁・桓武両帝の擁立を推進した藤原式家(藤原良継・百川兄弟ら)が台頭してきたことに対して、危機感を持った大伴氏等が企てた陰謀だった考えられています。大伴氏は関係の深い早良親王を天皇に擁立しようとしたともいわれますが、親王が実際に陰謀に関わっていたかは不明です。また、桓武天皇や藤原氏側が事件を利用して早良親王の失脚を画策したのかもしれません・・・桓武が子の安殿親王を皇太子にしたかったことや、幼少時に出家して僧として東大寺等に住んでいた早良新王が、皇太子に決って還俗した後も南都(奈良)旧仏教勢力と依然深い関係を持っていたために、南都仏教との決別を考えていた桓武が弟に疑いを抱いていたのではないかとも考えられているようです。
早良親王の死は、その後の桓武天皇の心に大きな影響を与えることになりました。
やがて、桓武の周囲では延暦七年(788)五月、夫人・藤原旅子(ふじわらのたびこ りょし)、同八年(789)十二月、母・高野新笠(たかののにいがさ)、同九年(790)閏三月、皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)、同七月、宮人・坂上又子(坂上田村麻呂の兄弟)らが相次いで死去します。
また、延暦七年(788)に畿内が旱魃に襲われ、同年、大隈国(現大隈半島)の霧島山が噴火。延暦八年(789)には東北へ遠征していた朝廷軍が蝦夷のアテルイ(阿弖流為)に敗北。延暦九年(790年)の秋から冬にかけては疫病が大流行し、延暦十年(791)八月には、伊勢神宮に侵入した盗賊によって神宮の正殿・財殿などが放火されるという事件が起こります。これら様々な凶事の中でも、特に桓武天皇を心配させたのは、同十一年(792)、皇太子・安殿親王(あてしんのう 後の平城天皇)が原因不明の病気にかかったことのようです。
これだけ異変が続けば、現代人でも、もしかしたら何かに祟られているのでは?と不安に襲われることでしょう・・・・延暦十一年(792)六月、天皇が皇太子・安殿親王の病の原因を探るべく陰陽師に占わせたところ、これらの凶事はすべて早良親王の怨霊によるものと判明します。
驚いた桓武天皇は、直ぐに勅使を早良親王の墓のある淡路国に派遣し、親王の祟りを鎮めるために、親王への陳謝を行って陵墓を整備し、墓守を置きました。しかし、その後も、同年六月末と八月に桂川の氾濫により長岡京で水害が起こりました。
ここにいたって、桓武天皇は和気清麻呂の進言をいれて、翌延暦十二年(793)早々、早良親王の祟りを受けて呪われた都となってしまった長岡京から、都を移す計画を進めました。(遷都の理由としては、遷都推進の中心人物・藤原種継を失ったこと、災害の影響で長岡京造営がその後進展しなかった点もあると考えられています。)
延暦十三年(794)十月の平安遷都後も、何か異変がある度に早良親王への鎮魂が繰り返されました。
「日本後記」によると、延暦十六年五月、宮中に異変があったとして宮中と東宮で金剛般若経を転読させると共に、僧侶二人を淡路に派遣して、親王の陵墓でも同教を読ませています。また、延暦十八年二月、行兵部大輔兼中衛少将・春宮亮大伴是成(とうぐうのすけおおともこれなり)と、僧傳燈法師を淡路島へ派遣して親王の霊を供養しています。延暦十九年(800)三月〜二十一年(802)には富士山が大噴火するなど異変がある中、同年七月に、早良親王に「祟道(すどう)天皇」の尊号を追贈し、再び春宮亮大伴是成に大勢の陰陽師や僧達を率いさせて淡路に派遣。山陵で祟道天皇の霊を供養しています。
延暦二十四年(805)、桓武天皇は体調不良に悩み、いよいよ自身の死期を覚ったのかもしれません。ますます、崇道天皇への鎮魂が繰り返されます。同年一月、崇道天皇のために淡路国に寺を建立。同四月、崇道天皇の為に小倉を建立、同七月、遣唐使がもたらした唐の物品を崇道天皇陵(他に天智天皇の山科陵、光仁天皇の田原陵へ)に献上。十月には崇道天皇の為に一切経を書写奉納しています。そして、延暦二十五年(806)三月、いよいよ死が迫った桓武天皇は、藤原種継暗殺事件に関係した者に恩赦を与えて大伴家持らを復位させました。そして、崇道天皇のために諸国にある国分寺で春秋七日間の金剛般若経の読経を命じた後、七十歳で崩御しました。
桓武天皇の生涯は、まさに弟早良親王(祟道天皇)の怨霊に悩まされ続けた生涯といえるでしょう。そして、日本史上の最大の出来事の一つ・・・千年の間、日本の首都となった京の都(平安京)が誕生した理由を、歴史家は色々納得の行く理屈を考えて論じますが、当時の記録からわかることは、ただ早良親王の怨霊から逃れるためだったという理由のみです。そして、その後も、早良親王(祟道天皇)は全国の「御霊神社」で祀られていくことになります。(早良親王(祟道天皇)を祀る京都の祟道神社、上御霊神社、下御霊神社については、以前に少し書いていますが、機会があればもう少し追加したいと思います)
次回に続きます。
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2008/5/11(日) 午前 9:10 [ リンリン ]
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