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乙訓寺の続きです・・・
さて、平安遷都以降、一時荒廃していた乙訓寺は、弘法大師空海によって再興されました。
弘仁二年(811)十一月九日、嵯峨天皇は、弘法大師空海を乙訓寺の別当に任命して、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備させ、この時以来、真言宗寺院となりました。
空海の別当就任は、嵯峨天皇の即位間もなく「平城太上天皇の変(藤原薬子の変)」が起きて世が乱れたために、これも早良親王(祟道天皇)の祟りと恐れた朝廷が、新王の祟り発祥の地(乙訓寺)での空海の祈祷の効力に期待したためという説もあるようです。また、弘仁三年(812)九月二十七日、伝教大師最澄が乙訓寺に空海を訪ね、ここで空海と最澄は初めて出会ったと伝えられます。
延暦ニ十三年(804)、最澄と空海は同時に入唐しましたが、最澄は越州(浙江州)龍興寺の順暁和尚から密教を学んで翌年帰国。一方、空海は長安の青龍寺の恵果和尚から同じく密教の灌頂を受けて、大同元年(806)に大量の密教経典や法具他を携えて帰国しました。
空海が最新の密教大系を日本にもたらした事を知った最澄は、自身が順暁和尚から授けられた密教の灌頂は傍系であることに気づきました。そこで、乙訓寺に空海を訪れ、礼を尽して弟子入りして灌頂を受けました。当時、既に仏教界の一大指導者となっていた最澄が無名の空海に教えを請うたことは、世間に大きな影響を与え、空海に弟子入りするものが続出し真言教団が生まれていきます。
空海と最澄の交流はその後も約10年間続きますが、やがて、最澄が「理趣釈経」の借用を空海に申し出て、密教の奥義を知るためには理論重視では無く実践が大切とする空海に拒絶され、また最澄の愛弟子泰範が、空海の弟子となって比叡山への帰還を拒否したことによって、決定的な終わりを遂げます。元々、空海が、密教こそ真言宗(真言密教)そのもので、他の諸宗(顕教)とは別個の仏教とするのに対し、最澄の天台宗では、顕教と密教を同列とし(顕密一致)、密教は法華経の一要素であり、円教、密教、禅法、戒律等を総合的に融合する「四宗融合」を目指すというものでした。この「密教」に対する考え方の相違が表面化して決別につながったと言えます。
さて、空海は弘仁三年(812)十月、高雄山寺(神護寺)に移ったために、乙訓寺との関わりは短いものとなりましたが、乙訓寺には、現在も空海ゆかりの寺宝等が伝わります。
本堂に祀られている秘仏・本尊弘法大師像(三十三年に一度開帳)は、空海と八幡大神との合作と伝えられる等身大の像です・・・・夜間、空海が八幡大神の姿を彫っていると、境内にある八満社から翁の姿をした八幡大神が現れて、共に協力して一体の像を造ろうと告げました。そこで、八幡大神は空海をモデルに肩から下を彫り、空海は八幡大神をモデルに首から上を彫って、明け方に出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく上下の像は合体したと伝えられ、以来、「合体大師」、「合体御影」と呼ばれるようになったということです。
また、毘沙門堂に祀られる毘沙門天像(平安時代後期)も空海の自作と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。他に、境内客殿前には、空海が唐から持ち帰ったみかんの木を栽培して嵯峨天皇に献上したという(性霊集)史実に基づいてみかんの大樹が植えられています。
その後の乙訓寺ですが、寛平九年(897)、宇多天皇が法皇となって、乙訓寺を行宮(あんぐう 仮宮)として堂塔を整備し、この時以来、寺は法皇寺と呼ばれました。
その後、法皇寺(乙訓寺)は、今熊野日吉町(京都市東山区)付近に移り、室町時代には、寺内の内紛が起こったため、将軍足利義満は僧徒を追放して、南禅寺の僧伯英(白英)徳俊禅師に(?〜1403)に命じて、法皇寺(乙訓寺)を禅宗寺院に改めて南禅寺の所属としました。応仁の乱や永禄年間(1558〜69)の織田信長の兵火等により一時衰微しますが、江戸の元禄時代になって、徳川五代将軍綱吉とその生母桂昌院の信任の篤かった将軍の祈祷寺・江戸護持院の隆光僧正が、再び真言寺院として乙訓寺を再興しました。
当時、乙訓寺は南禅寺金地院の兼帯となっていたため、隆光僧正は東山の旧豊国神社周辺にあった文殊院屋敷を拝領して、これを金地院と交換して乙訓寺の地を入手しました。工事は元禄七年(1694)十二月八日に起工し、翌八年(1695)五月二十一日竣工、六月十五日に落慶法要が行われました。この復興の際に、綱吉・桂昌院・側用人の牧野成貞が五百〜百両を寄進、また、綱吉は寺領百石を乙訓寺に寄進しています。(当時の寺域は八千二百余坪ということです。)
徳川家の祈祷寺、真言宗寺院として再興された乙訓寺は、宝永二年(1705)八月までは、中興となった隆光僧正が直接管理していましたが、同年に長谷寺の芳運房元貞が入山して乙訓寺第一世となり翌三年(1706)十一月に護摩堂が建立されています。その後、明治の廃仏毀釈や戦後の農地改革の影響で寺域を失いましたが、「今里の弘法さん」、「牡丹の寺」として現在も広く親しまれています。
さて、空海作と伝わる本堂に祀られている秘仏・本尊弘法大師像(「合体大師」、「合体御影」)と毘沙門堂に祀られる毘沙門天像(平安時代後期 国重要文化財)については上記しましたが、本堂の脇侍で、長谷寺の本尊を模したといわれる十一面観音菩薩立像も長岡京市の指定文化財で、乙訓寺は「洛西観音霊場」の第6番札所でもあります。
また、境内にある建物の内、本堂・八幡社・鐘楼・表門(南門=四脚門)裏門(東門=高麗門)は、長岡京市指定文化財に指定されています。
本堂(附宮殿=つけたりくうでん)は、元禄八年(1695)五、六月に建造された建物で、正面三間・側面五間、宝形造で本瓦葺の建物で、当初は大師堂と呼ばれていました。宮殿には本尊の合体大師像を安置しています。
鐘楼は、方一間の入母屋造本瓦葺の建物で、年代は不明ですが江戸中期の建物です。徳川綱吉の側用人だった牧野成貞の寄進による建立と伝えられますが、記録が無いために年代は不明です。鐘は戦時中に供出され、昭和四十一年に改めて鋳造されました。(以前の鐘銘を再刻していて、当初の鐘が元禄九年(1696)十月に精海の発注で、三条釜座の信州大掾藤原国次の作と判明しています。)
表門(南門)は、一間一戸の四脚門で、切妻造本瓦葺です。様式及び大棟端の鬼瓦の銘からも元禄八年(1695)の建立と考えられています。また、裏門は、一間一戸の高麗門で、切妻造本瓦葺、両脇練塀付きの建物で、同じく元禄八年の建立です。(棟札では裏門・高麗門とし、間九尺と記しています。また仕様覚には裏門「黒門」作と記します)
鎮守八満社は、一間社、流造銅板葺の建物で、元禄八年(1695)の建立です。(享保八年(1723)の修理の際に、桧皮葺から杮葺に、また明治以降に桟瓦葺(方形で横断面が波形をした瓦)に替えています。平成元年(1989)の修理の際に、軒の一部を柿葺とし、その上に銅板を葺いています。)
他に境内には十三重塔や早良(さわら)親王の慰霊塔、また多くの祠等が点在しています。
また境内にあるクロガネモチは、樹高9m、幹周2.93m、根元周囲3.55m、推定樹齢400〜500年という大木で、京都府下でも有数の巨大な名木で長岡京市指定文化財、有形文化財(天然記念物)に指定されています。この古くから地域の人々に親しまれ、乙訓寺のシンボルとなってきた大木は、昭和九年(1934)の室戸台風で幹が折れ、近年は枯れ枝が目立って腐食と空洞化が進んできましたが、今は関係者の協力で保全対策がなされ再生してきています。
最後に、乙訓寺といえば牡丹ですが、この牡丹が最初に植えられたのは昭和十五年(1940)頃のことということです。
元々、乙訓寺は表門から本堂まで松の並木が続いていましたが、昭和九年(1934)の室戸台風で多くが倒木しました。関西で牡丹といえば、すぐに思い浮かぶのは奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の長谷寺ですが、乙訓寺は長谷寺の末寺という関係から、乙訓寺第十九世海延住職の伯父にあたる長谷寺第六十八世能化(住職)海雲全教和上が、台風の被害を受けた乙訓寺の境内を見て、本尊への供花として、長谷寺で育てた牡丹のうち2株を寄進したものが始まりになります。
そして、その後歴代住職らの尽力によって株数も増加し、現在では約30種、約2000株の花が美しく咲くようになりました。こうして、今では乙訓寺といえば牡丹と言われるようになり、毎年四月末から牡丹まつりが行われています。
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本当に豪華で見事な牡丹ですね・・・!乙訓寺、そう遠くないのに行ったことがありませんでした。私は歴史は苦手でしたが、桓武天皇と早良親王の話はとても印象に残っています。乙訓寺で空海と最澄が初対面とは!
2008/5/14(水) 午前 0:02 [ gdcsj705 ]
うろうろしています。
お邪魔しました( ̄▽ ̄)v
2008/5/15(木) 午前 3:58 [ 真琴 ]
はじめまして、花子といいます。
花子のひとりごと・・・・・。
♪平凡OLのプチ秘密♪
2008/5/16(金) 午後 6:28 [ OL 花子です ]
ご訪問、ありがとうございます。
2008/5/17(土) 午後 4:30 [ hir**i1600 ]
ありがとうございます。
2008/5/17(土) 午後 4:31 [ hir**i1600 ]
ななまるこさん、乙訓寺は京都周辺のお寺らしく、のどかな雰囲気の良いお寺ですよ。観光で何度も訪れるお寺では無い感じですが、地元の人に愛されている印象を持ちました。長岡京市では長岡天満宮と並んで人気スポットですね。
2008/5/17(土) 午後 4:40 [ hir**i1600 ]