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観光名所として知られる仁和寺の西にある京都市右京区「鳴滝(なるたき)」と呼ばれる地域は、古くは「小松の里」、「長尾の里」とも呼ばれた村里で、この地で滝となった鳴滝川(御室川)の水音が周囲に響いていた事から「鳴滝」と呼ばれるようになったと伝えられます。法蔵寺(法蔵禅寺)のある泉谷町は、鳴滝の周山街道と北の宇多野谷に囲まれた小さな渓谷地の一部で、仁和寺宮覚性法親王(鳥羽天皇皇子)の「泉殿」旧跡から名付けられた町です。
鳴滝泉谷町にある法蔵寺(法蔵禅寺)は、山号を海雲山という黄檗宗寺院です。
山門前に「尾形乾山宅跡」、「尾形乾山陶窯跡地」という石標があるように、この地は、江戸時代中期の陶工・絵師だった尾形乾山の邸宅跡にあたり、乾山がはじめて自身の窯を開いた場所になります。
近年、法蔵寺境内のこの乾山窯跡が発掘調査され、各地の美術館でも乾山展が企画されるなど現代でも斬新な乾山の作品への関心も高まっているようです。また、法蔵寺の門前の「春日潜庵先生墓」といった石標が示すように、境内墓地には幕末の思想家・春日潜庵の墓もあります。
さて、尾形乾山は、寛文三年(1663)に、京の大呉服商「雁金屋(かりがねや)」の当主・尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれ、本名を権平(ごんべい)といい、父の死後に深省(しんせい)と改名しています。また、すぐ上の兄が琳派の大画家となった尾形光琳になります。
尾形家は、雁金屋の初代・尾形道柏(どうはく 光琳・乾山の曽祖父)の代に、当時のファッションの最先端でもあった呉服染色業を始めたといわれます。また、道柏の妻は本阿弥光悦の姉法秀(ほうしゅう)で、その後、尾形家から優れた芸術家が生まれたのは本阿弥家の影響があったのかもしれません。事実、道柏の子・雁金屋二代宗柏や、その子三代宗謙も諸芸に優れた多趣味な人物として知られ、その子、光琳や乾山に至って尾形家は後世に残る偉大な芸術を生み出すことになりました。
貞享四年(1687)の父の死後、権平は深省(しんせい)と称し、遺産を譲られて京都の御室(おむろ)で隠棲生活を始めました。深省(乾山)は、幼少時から書物を好んだ内省的な性格だったといわれ、家業を離れた自由な生活に憧れていたようです。こうして、黄檗宗の独照性円(どくしょうしょうえん)禅師に師事し、また御室焼の陶工・野々村仁清と出会って弟子入りし、その色絵陶技を学びました。
当時、この鳴滝の地には、江戸時代に二条家の山屋敷があり、当主の関白・二条綱平(にじょうつなひら1672〜1732)は、尾形光琳や深省(乾山)の後援者となった人物です。元禄十二年(1699)、この二条綱平から山屋敷を譲り受けた深省(乾山)は、ここにはじめて自身の窯を開きました。また、この場所が都の西北「乾(いぬい)」の方角にあたることから、窯名を「乾山」と名付け、また自らの号としても用いました。
この地では、既に有名画家となっていた兄の光琳の協力のもとに兄弟合作となった数多くの作品を生み出し、制作は十三年に及びましたが、正徳二年(1712)に深省(乾山)が住居を二条丁子屋町(にじょうちょうじやちょう 中京区二条寺町)に移したことで鳴滝乾山窯は終わりを遂げます。
この転居の理由は、鳴滝が市内から遠くて不便だったことや、研究や実験に莫大な費用を投じた放漫経営で財政が逼迫したためといわれています。二条に移ってからの深省(乾山)は、東山の清水等の諸窯に依頼して一般受けする色絵の美しい食器類を多く作って生計を立てました。商売は繁昌しましたが、享保十六年(1731)六十九歳の時、深省(乾山)は江戸へ下って入谷に住居を移し、以来京都に戻ることはなく、寛保三年(1743)に八十一歳の生涯を閉じました。晩年の深省(乾山)が、なぜ江戸に移り住んだのかは今もわかっていません。
さて、法蔵寺です。
深省(乾山)が二条に移った後、鳴滝乾山窯旧地は、書家・桑原空洞(1673〜1744)の山荘となったと伝わります。(最近の研究によると、乾山の後、幾人かの町人がこの土地を転売していた記録が判明したということですが)、その後、書や茶道等に通じた文化人としても知られる関白・近衛家煕(予楽院)と親交のあった百拙元養(ひゃくせつげんよう)禅師が、享保十六年(1731)に近衛家煕(予楽院)の資金援助を受けて桑原空洞の旧宅を譲り受け、黄檗宗の寺院に改め創建したと伝えられます。
法蔵寺の方丈は、近衛家煕(予楽院)永代祈願所として寄進したものを改めたものと伝えられ、幾度かの修理を経て現在の建物となっています。近年まで無住の時代が続いたため、今では小さなお寺に過ぎませんが、趣のある門前は楓が映える隠れた紅葉の小さな穴場です。寺宝としては、近衛基煕の念持仏観音菩薩像、百拙元養禅師が描いた自画自賛像や黄檗高泉像、釈迦・文殊・普賢・十六羅漢図十九幅や七条仏師作の十六羅漢像、鳴滝乾山窯時代の陶片等があります。
乾山ゆかりの鳴滝窯跡は、境内背後の墓地の一角にあります。
昭和五年(1930)に発見されて以来、正式な発掘調査が行われて来ませんでしたが、平成十二年(2000)から「法蔵寺鳴滝乾山窯址発掘調査団」が結成され、約五年間に及んだ発掘調査が行われました。1980年代以降に法蔵寺の北側は宇多野霊園という墓地造成が進められて地形が大きく改変されてしまったために、窯跡の正確な位置は不明のままですが、それでも多くの乾山焼陶辺が出土しています。
また、法蔵寺の墓地には、幕末の儒学者・春日潜庵(1811〜78)の墓が、春日家一族の墓に囲まれてあります。
春日潜庵は、文化八年(1811)、公家久我家に仕える諸大夫の家に生まれました。潜庵は久我通明・建通に仕え、また陽明学を学んで私塾を開いて弟子の教育を行いました。幕末期には尊皇譲位論者として横井小楠や梁川星巌、西郷隆盛らと交流し、安政の大獄(1858)で捕えられますが、後に赦免されています。明治元年(1868)五月、奈良県初代知事となりますが、僅か二ヵ月後に旧幕府との通謀罪で逮捕され辞官。疑惑が晴れて出獄した後は教育に専念し明治十一年(1878)に死去しました。
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