京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

京都府下

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長岡天満宮その2

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長岡天満宮の続きです(尚、写真は、キリシマツツジのピーク過ぎの五月初旬のものです。)


さて、京都府長岡京市は、かつて山城国乙訓郡長岡と呼ばれ、古代から開けた地域だったようです。
歴史的には天応一年(781)に即位した桓武天皇が、南都(奈良)の仏教勢力の圧力を嫌って、平城京からこの地への遷都を計画し、延暦三年(784)に長岡京を造営したことで知られます。長岡京に都が置かれたのは平安遷都までの十年に過ぎませんでしたが、乙訓寺をはじめとする当時の幾つかの史跡が現在まで残っています。


長岡天満宮の沿革です・・長岡天満宮の創建年代は不明ですが、かつては乙訓郡開田村の鎮守社として開田天神、開田天満宮と呼ばれていたようです。(また、社地も江戸時代初期に現在地(天神山)に遷座した記録があるために、創建時は現在の開田一帯の別の場所に有ったようです。)

社伝によると、長岡天満宮の鎮座地は、平安時代に菅原家の所領だったとされ、菅原道真が在原業平らと共にしばしば詩歌管弦を楽しんだ所とも伝えられます。昌泰四年(901)、道真が太宰府に左遷された時には、この地に立ち寄って「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しんだといわれています。(この道真が名残を惜しんだという言い伝えから、別名「見返り天神」とも呼ばれています。)また、天満宮の鎮座地は、少し遡った平安時代初期の弘仁二〜三年(811〜13)、弘法大師空海が乙訓寺の別当となった時に、乙訓寺に属する塔頭として長岡精舎を建てた場所だったともいわれます。

神社を創建した人物にも諸説があるようですが、延喜三年(903)の道真の死後、菅原一族が道真の所領だったこの地に道真を祀ったのが天満宮の始まりとも、或いは、長岡精舎の坊官だった中小路宗則、西小路祐仲、東小路祐房の三人が創建したとも伝えられています。
この三人は、大宰府に向う道真を慕って近臣として大宰府まで随行しましたが、道真に諭されて、道真が自身の姿を彫った6センチ余の木像(画像とも)を贈られて帰洛しました。そして、道真が大宰府で亡くなった後、この道真自作の木像(画像)をこの地に祠を建てて祀ったということです。
この随行者の一人とされる中小路氏は、菅原氏の一族の出身と称し、天満宮の神官職を継承する一方で、中世には乙訓郡の国人領主として勢力を拡大した氏族で、応仁の乱後の明応七年(1498)には、荒廃した開田天満宮(長岡天満宮)を再建したという記録もあり、現在まで長岡天満宮の神官を世襲しています。この中小路氏によって神社の創建伝説が生み出されていったのかもしれません。


ともかく、開田天満宮(長岡天満宮)は、その後も皇室の厚い崇敬を受け、江戸時代初期の元和九年(1623)には桂離宮で知られる八條宮家の領地となり、またこの頃に、天神山の現在地に遷座したようです。宮家の度々の寄進を受けて社地の整備が行われ、寛永十五年(1638)には、八条宮智仁親王によって灌漑用の池(現・八条ヶ池)が築造されました。その後、延宝四年(1676)に天満宮の本殿、末社が宮家によって造営された記録があり、元禄四年(1691)には境内に春日社、八幡社の小祠が建てられました。

境内は、かつては10万余坪に及んでいましたが、明治維新後の上地礼のために縮小しました・・それでも現在2万余坪を所有しています。 現在の本殿(三間社流れ造り、素木)、祝詞舎、透塀は昭和十六年(1941)に、京都の平安神宮の社殿を移築したもので、拝殿は平成十年(1998)に以前の素木の拝殿を朱塗りにして増改築したものです。また、入口正面の御影石製の大鳥居(総高9.75m、笠木12m)は、平成十四年(2002)の「菅公御神忌1100年大萬燈祭」を奉賛して、平成10年(1998)10月に奉納されたものです。


境内の東側には、南北に細長く伸びる「八条ヶ池」があります。
先程書きましたが、八条ヶ池は、寛永十五年(1638)に、当時のこの地の領主・八条宮智仁親王が造営させた灌漑用の溜め池で、池の名前は八条宮に因んで後に名付けられました。寛永十五年(1638)に境内の東側に池を開き、翌十六年(1639)に境内周囲の堀を掘って造成し、以来、農業用の溜め池として利用されてきました。池の外周は約1km、貯水量は約35000トンあり、池を二分する約60mの中堤は、天満宮の参道として使われていて、中堤の中程にある石の太鼓橋は加賀前田家からの寄進といわれています。

池の周囲はツツジやフジその他多くの花が植えられていますが、特に中堤周辺約70mに渡って植えられているキリシマツツジ(霧島つつじ)は、野生種に近い約80株で、樹高は約2.5mを超え、推定樹齢100年〜150年という古木で、長岡京市の天然記念物に指定されています。長岡京市は、この貴重なキリシマツツジ(長岡京市の市花でもあります)を保全するため、平成三年〜五年にかけて中堤の拡幅整備工事を行い、また新株の植栽を行いました。

また、中堤と北池の中ノ島の六角舎を結ぶ水上橋(総檜造り 全長273.8m)を含む一帯は、「八条ケ池ふれあい回遊のみち」と名付けられた散策路として整備され、地元の多くの人々に親しまれています。この水上橋の六角舎からは、四月にはキリシマツツジや桜、そして天満宮境内の森や竹林が遠望できます。また、池の西側には、ハスやアヤメ・カキツバタ群落があり、五月から七月にかけて花を楽しむことが出来ます。また、南池の西側には、竹の子料理店「錦水亭」があり、赤を基調とした店のたたずまいも池に映えています。


他に、天満宮の境内には、六つの末社(八幡社、春日社、長岡稲荷大明神(明治三十三年創建)、山神社、和泉殿社、白太夫社)と笠松地蔵が祀られています。また本殿への参道の途中にある弁天池の周辺は、「紅葉庭園 錦景園」として近年整備されています。この錦景園には、幾つかの歌碑、記念碑が建立されています。(「霜林30周年記念事業記念歌碑(昭和52年4月建立)」、「長岡保勝會の事業竣工記念碑(大正11年建立)」、「森岡峻山先生歌碑」、「蟻塔歌碑」、「浅井素堂先生書碑」、「菅公頌徳詩碑」等が点在しています。)
また、天満宮に隣接する長岡公園は、多目的グランドやテニスコート、ゲートボールコート、子供広場等のある市民公園で、竹林や梅林、あじさい園もあって四季折々の散策を楽しむことができます。


(八条池の西側、ハスやアヤメ群落付近の写真を追加します。)

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